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「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」 (詩の神・オーディン) 主題はブログにリンクします 世界遺産・平泉(20) 「北上川流域の慨史」 。 盛岡市街地を流れる北上川 北上川は、東北地方(岩手県の中央)を縦断する川である。 それは東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの多くの水を集めて、長く南下するのであり、従って、川の流域には縄文時代から多くの人間が住みつき、川が一つの交通路となって、ここに一つのまとまった社会をつくった。 北上川は、この地の土着民にとっても重要な意味をもった交通路でもあり、蝦夷にとっても「母なる川」であったが、一方、大和朝廷もまた北上川を利用して蝦夷征伐を試みることになる。 最も古い北上川の利用記録は、平安時代に東北の蝦夷(えみし)を討伐した武将として知られる坂上田村麻呂によるもので、北上川の支川である雫石川のほとりに、彼が造営したとされる志波城址(盛岡市)がいまも当時の面影を残している。 古代奈良期の頃までは、この辺りは未だ東国・蝦夷(えみし)といわれた処の中心で、蝦夷・エミシの棟梁である「アテルイ」という人物が古代東北を治めていたことは、東北の歴史に興味のある人は周知のことであろう。 大和の国統一を計る朝廷は宮城・多賀城に根拠を持ち、幾度となくエミシの中枢である水沢、胆沢を攻めるが、アテルイによってことごとく阻まれてる。 そして、最後に登場するのが征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂よって、一応の決着をつけられるのだが。 弥生期に導入された稲作は、奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化として浸透していた。 ところが東北北部地域は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。 当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらの住民は、主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであったのだが。 この頃時代によって様々であるが、奥羽の先住民族である蝦夷と大和朝廷との関係は、国と統一と西方文化を広めるため、蝦夷との争乱がしばしば記録に出てきている。 都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく、支配下に収めることに難渋していた。 そんな中、蝦夷鎮圧と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」である。 朝廷は、坂上田村麻呂を将軍に武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣し、結果的に陸奥仕置が行われた。 これを契機に陸奥の国は、大和朝廷の統制化に入り、食文化においても縄文様式の生活から、稲作文化へと波及してゆくことになる。 その食、とりわけ稲作・米の生産、流通に主役を果たすのが北上川流域であった。 平安も末期になると、東北地方(陸奥)は現地豪族して知られる俘囚・安倍氏によっ手統治されていた。 東北の蝦夷(えみし)たちは一般に俘囚(ふしゅう・朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化したエミシ)と呼ばれるようになり、その維持政策管理を任されていたのが安倍氏であった。 安部氏は北上川の河畔に数多くの城柵を建立していて、今でも川崎村の北上川と砂鉄川の合流部付近には船着場のような石積みの跡が確認できるという。 この時期、彼は朝廷に対して反乱を起こすことになる。 これが「前九年の役」、「後三年の役」という戦役であった。 この戦をを経ながら、北上川流域に藤原全盛期を迎えることになる。 平泉の藤原三代の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)等に代表される奥州・藤原文化のように東北独特の文化圏を形成した。 それには「北上川」が社会、経済、文化の発展に大きな役割を果たしていたのである。 次回、引続き 「平泉と北上川」
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