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世界遺産・平泉(4) 「初代・藤原清衡」


                   
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  世界遺産・平泉(4) 「初代・藤原清衡」 
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藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡、そして藤原泰衡らによって、藤原一族による凡そ100m年間わたって奥州支配が続くことになる。
ただ、四代目の泰衡は、華やかな藤原文化としての実績は余り残していないようで、逆に、藤原家に命乞いをしてきた義経を、奇襲にて殺してしまうなど、歴史的にも印象の悪い行為を残している。
従って、奥州における隆盛を誇った藤原時代は、実績的には清衡、基衡、秀衡の三代というのが一般的らしい。



その初代目・藤原清衡について・・、



  
  初代目・藤原清衡肖像画(wiki 毛越寺所蔵)





戦乱を制した清衡は、陸奥の棟梁であった安倍氏の血を引いていたためもあり信望厚く、奥六郡を支配下においた。
後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、都との関係を結び、それを深めるために藤原姓を名乗り、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築いた。


清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かさなかった。 その為、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認している。

その後、朝廷内部の抗争や源氏と平氏の間で政争が起きたために、中央政府は奥州に関わっている余裕が無かったが、清衡は独断専行することなく、当時の政府原理に併せた奥州支配を進めたとされる。


清衡が、先ず平泉に仏寺を建立した目的は、前九年と後三年の役で戦死した兵の霊を慰めるためであった。 
前半生の激変する人生が清衡を浄土思想に導いたのであろう。
そして,奥州から産出する莫大な黄金を使って都に匹敵するほどの平泉文化を育てたあげ、その中心として21年という長期の歳月を掛けて中尊寺(世界遺産)という大伽藍を造営させた。
かの金色堂は天治元年(1124年)に完成している。 
屋根・内部の壁・柱などすべてを緊迫で覆い、奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。


その4年後の大治3年(1128年)7月17日、73歳で生涯を閉じている。
金色堂中央の須弥壇の中に清衡、基衡、秀衡の遺骸、泰衡の遺体(ミイラ)が納められているが、遺骸の調査結果から、清衡の死因は「脳溢血またはそれに類する疾患」とされている。


次回、「二代目・藤原基衡」 




                  
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