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「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」 (詩の神・オーディン) 主題はブログにリンクします 世界遺産・平泉(5) 「二代・藤原基衡」 , 藤原基衡肖像画(wik 毛越寺所蔵) 藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡、そして藤原泰衡らによって、藤原一族による凡そ100m年間わたって奥州支配が続くことになる。 ただ、四代目の泰衡は、華やかな藤原文化としての実績は余り残していないようで、逆に、藤原家に命乞いをしてきた義経を、奇襲にて殺してしまうなど、歴史的にも印象の悪い行為を残している。 従って、奥州における隆盛を誇った藤原時代は、実績的には清衡、基衡、秀衡の三代というのが一般的らしい。 その二代目・藤原基衡について。 平泉を拓いた初代・清衡の思想は、子、孫に脈々と受け継がれた。 二代基衡は毛越寺(世界遺産)を建立している。 寺院は、自然を景観に取り入れた浄土庭園であり、吾妻鏡(鎌倉時代の歴史書)によると『金銀を散りばめ,紫檀・赤木でつぎ万宝を尽くす』ほどに壮大な伽藍が建っていたという。 中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇」(吾妻鏡)だったのに対し、毛越寺は、四十余宇、禅坊五百余宇に及んだといわれ、発掘調査の結果からも、中尊寺をはるかに凌ぐものだったことが裏付けられている。 又、基衡の妻も「観自在王院」(世界遺産;池を配し、隣接して大阿弥陀堂と小阿弥陀堂が設けられていた。極楽浄土を表現した庭園として、日本庭園史上でも価値が高いとされる)を建立している。 しかし残念ながら、毛越寺や観自在王院といった御堂、塔頭、小院などの当時の建築物は、いまは名残っていない。 しかし、凡その規模で、庭園だけは当時のまま残っている。 尚、毛越寺の本堂伽藍は平成になって再建されたもので,他の常行堂や開山堂は江戸中期の再建されたである。 南大門や嘉承祥寺跡,金堂円隆寺跡などは礎石が残るばかりである. 基衡は陸奥領主となって、勢力を福島県下にまで拡大している。 性格は剛腹、果断と評され、中央の摂関家である藤原氏との荘園問題で争ったこともあったという。 それでも、奥州藤原時代では最も安定していて、栄華を誇った時代であった。 基衡の死亡年代は明らかではないが通説では保元2年(1157年)とされ、遺骸(みいら;人間または動物の死体が永く原形に近い形を保存しているもの)の調査結果から、50〜60歳くらいで没し、死因は「脳腫瘍か脳溢血」と見られている。 次回、「三代目・藤原秀衡」
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