古都鎌倉1-2

古都鎌倉:Part1-2(大路と段葛、八幡宮と大銀杏)   part2(白旗神社、頼朝の墓)へ
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古都鎌倉(3) 「若宮大路と段葛」

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写真:若宮大路と段葛


「段葛」を通れるのは神の他、将軍かその後の北条執権に限られた・・、

鎌倉市中で鮮明に気付くのは山地多く、入組んだ道が多い中、市街の中央を幅広い一直線の道が、由比ガ浜から八幡宮境内まで延びていることである。まるで市内を二分しているようでもあり、この真っ直ぐに延びる参道を「若宮大路」と称している。

「若宮」とは先にも記したが、八幡宮が新規に鶴ヶ岡に移遷されたことであるが、他にも平安京の時代から、ここ鎌倉に新幕府を開いたこと、そして頼朝自身この地で武家の棟梁になったこと、等々余りに符号した命名に頼朝は満面で笑くそえんだという。


JR鎌倉駅前を少し出ると、若宮大路である。
この辺りが概ね大路の中間地に当たる二の鳥居がある。
ここで特徴的なのが、ここから一の鳥居まで、つまり宮の境内前までが大路の中央部分が幅4〜5mくらい一段と高い通路になっていることである、この部分を「段葛」と称している。両端を石組みしてありツツジの植え込みと桜並木になっていて、むろん今は歩行者専用である。

幅に関して正しくは、一の鳥居側(宮側)は3m、二の鳥居側で5mあり、つまり、宮側が狭くなっているのである。これは、人の目の遠近、錯覚をねらったものだといわれる。 
普通、大きめな社宮には森に囲まれた長い参道がある。社は異界の地に在り、人々がお参りするのには、この間に邪気・邪心を祓い清心敬虔な気持ちで参拝すべきものである。
だが、若宮参道は短く、周辺は人が住み着き、往来する俗界がすぐ近くにあったが為、より長く、遠方であるとを錯覚させたともいわれる・・?。


「段葛」の造作については諸説あるが・・、


主として北条政子が懐妊したとき、祝事として行ったというのが一般的である。 又当時、大路周辺は低地で大雨が降ると泥道になる、そのため高貴な方は一段高所を通るためとも云われる。
他に祭事の折の神の通り道、とあるが「神のほかは、段葛を通れるのは将軍かその後の北条執権に限られた」とも云われる。 


義経は、この段葛を通ることは許されなかった・・!!、


源平合戦の「壇ノ浦の戦い」で入水に失敗し、捕虜になった平家の大将・「平宗盛」が鎌倉へ移送された時、この段葛をスゴスゴと通ったという。 宗盛は官職では従一位内大臣にあったため、一応の礼をつくしたのだろう。 

因みに、この時護送してきたのが「源義経」であったといわれる。 
任務が終えた後、義経自身は「腰越」の地に留まるよう頼朝より命じられている、そして実兄・頼朝に面会も叶わず、宗盛を再び引きずれて京へ戻る破目になる。 
この時期、頼朝から見れば義経は、宗盛より政治的に罪人だったのだが、宗盛はむろん義経自身未だそこまで気が付いてなかったらしい。 義経は以降没落の道を歩むことになる、歴史の皮肉である。

後の義経の段において、いずれ更に詳しく述べます。

次回は、大銀杏と実朝


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古都鎌倉(4) 「鶴岡八幡宮と大銀杏」

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源実朝の暗殺事件・・!!、


写真:参道階段の大銀杏(左側)


『 箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 
                    沖の小島に 波の寄る見ゆ
 』

源実朝が編纂した「金槐和歌集」より自身の一首である。

実朝は政治の実権は既に北条氏に移っていたため、早くから京風文化に憧れ、和歌、管絃、蹴鞠などを好み、特に和歌では第一級の歌人といわれた。
実朝が右大臣に任官したのをうけて、次の年の承久元年(1219年)正月、八幡宮本社において拝賀の儀式が盛大に行われた。
祝賀式が無事終了して、実朝は数人の従者とともに本殿から幅員のある石段を降りていった、途中に公孫樹(いちょう)の植木があった。

現在、太鼓橋から石畳の参道をゆくと、中ほどに舞殿(神楽殿)がある、舞殿は源義経の愛妾だった「静御前」が歌舞を演じた舞台である。
そこから幅の広い61段の大石段を上ると、すぐに煌びやかな本殿が鎮座している。
その石段の途中左側に樹齢千年以上ともいわれる大公孫樹がある、この樹は二代目ともいわれるが、本殿と石段とそしてこの公孫樹の樹が三味一体の構図を成して実にいい。 

実朝が公孫樹に近ずいたとき、木陰で待ち伏せていた甥子の公暁(くぎょう・頼家の子、)に「親の敵・・覚悟めされい・・」といって切り伏せられ首をはねられた。
三代将軍源実朝暗殺事件である。
頼朝は政治的手腕に優れ、一代で鎌倉幕府を創設するが、二代頼家、三代実朝共父に及ぶべきもなく凡庸な人物であったらしい。その為、頼朝以来の御家人が不平不満に陥り、はては同士内抗争が起こり頼家、実朝は失脚暗殺に陥ったという。

頼朝なきあと鎌倉は北条時代の安定期をむかえるまで、動乱の坩堝と化していた。
ともあれ実朝の暗殺で源氏血統は絶やしたのである。

次回は、白旗神社ほか   part2(白旗神社、頼朝の墓)へ

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