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古都鎌倉 (12)
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古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」





瑞泉本堂と瑞泉岩屋(下)




 禅の心: ”世は動である、しかし、動の中に静を求める”・・、



鎌倉駅徒歩から徒歩で30分、または京急バス鎌倉駅から大塔宮方面へ。

二階堂地区の最奥部山裾に「瑞泉寺」は静寂な佇まいの中に在った。
本堂裏手は、岩山になっていて、くり貫いた岩屋の前は、草木に囲まれた小池が寂として佇んでいる。


某人が岩屋で座禅想に耽って居る時、池面に、満ちた月が映っている。 しかし、その月は、いつしか移りゆき、消えうせていた。

「世は動である、しかし、動の中に静を求める。 
                        今は静である、しかし、静の中にも動を認める」
 

微かに落ちる水の音と小鳥の啼く音、静寂の風景の中にこんな想像をしてみたが。


室町時代にかけて臨済宗の黄金時代を築いた「夢窓国師」は、足利尊氏・直義兄弟の篤き帰依を受け南北朝時代の動乱の渦中にありながら良く出家者としての中庸の立場を保ちつつ、南北両朝の天子(天皇及び一族)たちの精神的指導をなしたともいう。 

師は、後醍醐天皇を初めとし多くの天皇より国師号を賜り、「七朝国師」といわれるほど尊崇されていた。

更に吉野朝廷と京都側との講和を図ったり、尊氏兄弟の和を図ったりしたために権勢に近づき政治的手腕にも長けていたが決して介入はせず、寧ろ権勢に参加することを拒否した高潔な禅僧であったという。


国師は各地に禅寺を創生、中興し、併せて禅流の思想にもとずく庭園を創作したことは、よく知られ、この瑞泉寺の庭園が各地の国師庭園の大基になっているともいわれる。

特に著名なのが京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園であるが。 
庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に滝、池、中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流すなど、岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。 
鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されている。


本堂裏の庭園から「天園ハイキングコース」が敷かれている。
この鎌倉の丘陵地帯であるハイキングコースは別名「鎌倉アルプス」と呼ばれ、市街を囲むように延びている。 
南面には相模湾が広がるが、他の三方向は山に囲まれているため、天然の要塞の様になっている。
因みに、この事は源頼朝が平家の大軍を迎え撃つことになるかも知れないという思案の元に、鎌倉を永住の地と決めた経緯にもなったともいわれる。

庭園の裏山の山上には国師が開いた「偏界一覧亭」(へんかいいちらんてい)が在ったという。 
ここで鎌倉五山の僧を招いて、よく詩歌を詠み、勉学に勤しんだ。
これが「五山文学」発祥といわれた。 

五山文学とは、夢窓国師を中心とした禅僧によって生みだされた漢文学で、臨済宗の奥義を吟味しながら詩文を中心に禅義、法語、日記、随筆、紀行文などと多彩で、一山・疎石(夢窓国師)の門下によって五山文学は一層栄えたという。


現在、コースからは木柵で閉鎖され、行けないようになっているが、名残の小堂が残っているようである・・?。 

その前に碑文が立っていて一部に、


  『 前もまた 重なる山の 庵にて 
                   梢(こずえ)に続く 庭の白雲
 』


と夢想国師がこの亭で詠んだものと伝えられている。



瑞泉寺」は、室町期の鎌倉公方(京・室町の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の庁、関東公方ともいう)の代々の菩提寺であり、本堂前の大庭園は百科の花が咲き誇り、特に「梅」は有名である。



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門前に「吉田松陰」の碑が在った。

長州、攘夷志士・吉田松陰が江戸遊学時、時折ここ瑞泉寺を訪れている。 
当時、この寺の住職である名禅僧「竹院」は、松蔭の伯父に当たっていた。

松蔭は、江戸期の官学である朱子学を中心とした教育をうけていた。
朱子学者は異教である仏教、特に禅宗を敵視する傾向が強い学問であるといい、ために仏教に対する警戒心が有った。
朱子学では学問的な理性の自己実現という命題があり、従って、禅宗でいう「悟り」とは実体が無く、道にも外れた空理であると断じ結論付け、排撃といってよいほどの姿勢に転じている。 

しかし松蔭は、学問的偏見や肩書きには捉われず人を見る洞察力、判断力があった人物である。 
松蔭が初めて江戸に来た時に早速訪れて、この禅僧とじっくりと話し合い、詩文から禅宗の高等理論まで様々談論している。


「死して後、已む」・・、

松陰は、『死して後、已む』という格言を会得している。 

「死して後、已む」とは、一般には”死ぬまで努力しつづける”という意味になる。


曾子(孔子の弟子)曰く・・、士は以て弘毅ならざる可からず、任重くして道遠し、仁以て己が任と為す、又重からずや、「死して後に已む」、亦遠からずや。

(現代訳)
曾子が言うには・・、士たるものは、心ひろく忍耐つよくなければならぬ。 任務は重く、道は遠いのである。 仁といふ最高の徳を体得しようとするのだから、その任務は重い筈ではないか。 死んで後はじめて任務が終るのだから、その道はまた遠いといふべきではないか。


松蔭の実践思考と曾子(禅宗の考え方)が一致したのである。

「已む」(やむ)とは・・、長く続いている現象や状態が自然に止まり消え失せる意で、自然現象などが時が来て消え失せる、お仕舞になる、続いていたものに決まりがつく、落着する、後が続かなくなる、物事が中止になる、病気・気持などが治まる、癒えるといった意味合いをもつ。



松蔭は、嘉永6(1853年)年6月、ペリー率いる米艦隊4隻がやってきた直後、その様子をつぶさに観察し、その後、「瑞泉寺」を訪れている。 

竹院が見るところ、この日の甥御はどこか様子がおかしかったという。
そして松蔭が切り出した話に竹院は驚愕した。 話は、長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである。

しかし、竹院はこれを「貴」とした、そして、路銀の足しにとして金三両を渡しているのである。 
そして、10月には長崎へ発ち、末には入っている。 

だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった。


それからの安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊が前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れている。 
そして、あの吉田松陰の密航事件が発生するのである。
ペリー船が再航した際、門弟と二人(金子重輔)でポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されている。その後、幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。

尚、「吉田松陰」については「日本周遊紀行」の巻頭に若干の記載が有り、更に、山口「萩」の項で詳細に述べております。


日本周遊紀行 山口・萩  「吉田松陰」  (H・P)
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-23-5.htm



日本周遊紀行(176) 萩 「吉田松陰(1)」  (ブログ)
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-561.html


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