古都鎌倉2-2

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古都鎌倉(7) 「大江・毛利・島津の墓」

広元の墓

季光


写真:大江広元、毛利季光、島津忠久の墓


当墓地においても「薩長同盟」がなされているのが面白い・・、

こちらへ行くには、源頼朝の墓の右手奥にある石段を登って山の小道を歩いていくか、一旦頼朝の墓を降りて右側に歩いていった先の左手階段を上っていくようになる。どちらも山裾の薄暗く湿った林の中で、かなり心細いルートである。
山腹に玉垣に囲まれて三ヶ所の墓があり、よく見るといずれも「やぐら風」(矢倉・窟、岩山に穴を掘って物を貯蔵しておく倉、また、墓所、鎌倉付近に多い)横穴古墳のようなものを改装したもので、江戸近世以降のものと見られる五輪塔が入っている。
真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた「大江広元」の墓があり、左側には大江広元の第四子で後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる「毛利季光」の墓がある。そして右側に頼朝の子で、後の南九州地方の大名・島津氏の祖といわれる「島津忠久」の墓がある。


これら三者の先ず「大江広元」について・・、


わが町、神奈川県・厚木市に南毛利、毛利台といった地名が今も在る。中世の頃までは、相模の国(神奈川県)のこれらの地域である愛甲地区を、「毛利の荘」と称していた。
頼朝の側近で、幕府の公文所や政所の別当(長官、大臣)として幕府の政治を進めた、いわば総務長官であった。 頼朝は、彼に相模の国・毛利の荘を与え、その子四男の季光に「毛利季光」と名乗らした。 後に季光は中国地方の安芸の国を与えられ、「三本の矢」で有名な長州藩の宗領「毛利元就」を生むのである。

鎌倉で幕府の統領になった頼朝は、都の学問や法律を学び、様式や文化を取り入れるべく都(京都)から大江広元を鎌倉に招いた。 広元は、政所の長官として腕をふるい、頼朝が全国に「守護・地頭」を設置したのも全ては広元の献策によるものであると言われている。
頼朝の死後も北条執権の下で幕府に参与している。


その四男・毛利季光について・・、


建仁2年(1202)大江広元の四男として生まれたのが季光である。
季光が名乗った「毛利」は、現在の厚木市域から津久井方面にかけてひらかれた庄園名であり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて森冠者(陸奥六郎義隆)や毛利太郎景行などの武将名が資料に登場している。 季光は、和田義盛の乱で亡んだ毛利氏や愛甲氏にかわって毛利庄の領有権を得たことによって、自らの姓を「毛利」と改めたといわれる。

毛利庄と鎌倉とのつながりは深い・・、

宝治合戦(ほうじがっせん:鎌倉時代の1247年に執権北条氏が御家人三浦氏の一族を滅ぼした事件である。三浦氏の乱とも呼ばれる)において三浦方についた季光は、この日、一族と共に死の時を迎えることになる。鎌倉の有力御家人・三浦氏との姻戚関係をもったことが、逆に季光の運命を追いつめる結果となってしまったのである。 

季光を含めた三浦一族が敗戦の結果、自殺、討死を余儀なくされるが、この時、一人四男の経光だけは越後国にあって、この難をのがれている。
この季光の子「経光」によって毛利の姓はかろうじて保たれた。 経光は、越後国・佐橋庄(新潟県)と安芸国・吉田庄(広島県)の地頭職が安堵され、この毛利氏が後の吉田庄で戦国大名として名を馳せることになる。 そして「毛利元就」を生むことになるのである。


次に島津忠久のこと・・、


頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であった。その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが忠久だといわれる、御落胤である。

大阪の住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。 一時、畠山重忠に預けられ、成人して幕府御家人となり、源頼朝から日向国・島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ、「島津」姓を名乗った。 
島津家に伝わる史料でも、忠久は母親が源頼朝の側室で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたと記されている。

その後、薩摩国・大隅国・日向国の3ヶ国の守護職に任じらている。 しかし、建仁2年(1203年)の「比企能員の変」に連座したとして、三州守護職を地頭職を剥奪される。
その後、北条氏との関係を修復し、薩摩国においては建保元年(1213年)守護職に復職している、九州の覇者・「島津氏」の開祖である。

頼朝が築いた武家政治(幕府)は、永きにわたって江戸期まで続くことになる。
この制度を打ち破ったのが、くしくも長州・毛利氏と薩摩・島津氏の両藩で、明治維新に繋がるのである。
両氏は、武家政治の始まりと終わりに煌く出現し、当墓地においても「薩長同盟」がなされているのが面白い・・。


次回は、三浦一族

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古都鎌倉(8) 「三浦一族の墓」

三浦の墓


写真:三浦一族の墓と当主・義明の冥福を祈る「来迎寺」(鎌倉・材木座)


一の谷合戦の「鵯越えの逆さ落し」は三浦氏の提案であった・・、

大江広元の墓地を下りると、その途中左手にもう一つの「やぐら」がある。 その中には五輪塔や卒塔婆や供物が供えて有る、こちらは「三浦一族の墓」である。 三浦氏は、北条氏との幕府の主導権争いに敗れ(宝治合戦)、一族の最後は、追い詰められて頼朝ゆかりの法華堂に籠もって自害したという。


話は、先ず源平合戦の頃である・・、


源義経が、頼朝の代官として平氏を攻めた時、難関の奇跡といわれた「一の谷合戦」は有名である。
摂津の国(大阪)と播摩(兵庫)との境に一の谷がある、この地に平家軍は陣を構えていた。 

前は瀬戸内海、後ろは鵯越え(ひよどりごえ)といわれる人馬寄せ付けない・・?、急斜面の地である。義経はこの高地に立って下を見下ろした時、ここからの攻撃は無理だと内心思ったが、傍らにいた佐原十朗義連(三浦の義連・よしつら)が『こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ』といったという。 
人の目から見ると、確かに難攻な斜面であるが、馬の目で見ると、そうでないかもしれない、三浦党は馬の目をもっていたのだろう。義経の「鵯越えの逆さ落し」はこうして生まれたという。

三浦半島に根拠(衣笠城)をもつ三浦党(党首・三浦大介義明)は、流人である伊豆の頼朝を密かに支援していた。 そして「我等は代々源家の家人である」と常々申していたという。
しかし、三浦氏は元々は桓武天皇の流れをくむ平家の一族であり、半島一帯の武士団であった。

平安中期、奥州陸奥の変(前九年の役)に源頼家に従って参戦し活躍もしている、その功をもって正規に三浦半島の領有権を与えられ、衣笠城を築き、城持の豪族になった。 
この時から、三浦党は源氏の大家人になったのである。 

頼朝の初戦「石橋山の合戦」で敗れたのは、三浦党が応援に駆けつける際、酒匂川が増水して到着が遅れたからとも云われている。
落人となった頼朝が房総へ渡る途中、湾上で三浦党と出会い同勢して上陸した。 この際、三浦党を従えていたということで、房総衆は頼朝を見直したという。
この後、復帰なった頼朝が行った「論功行賞」で、三浦義澄・義盛らは三浦本領安堵、新恩拝領を受け、義澄は三浦介の名乗りを許された。そして、義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らとともに「宿老」として頼朝のブレーンとなった。


頼朝亡き後、鎌倉は「北条の時代」へと移行する・・、


北条氏は他氏排斥の意向が強く、常時内紛が起こっていた。
そんな中の1213年、三浦一党の和田義盛は北条氏により「和田合戦」で滅ぼされている。

今度は第五代執権・北条時頼らによる三浦氏討伐の謀略が進められ、かくして宝治元年(1247)、「宝治合戦」といわれる両雄対決となる。 
三浦一族は手強く戦ったが北条方の優勢は動かず、頼朝を祀る法華堂に逃れ、主な従者260人、都合500余人が自害を遂げ三浦氏は滅亡したという。


この時点で、三浦一族の主流は滅亡する・・が、


その後、傍流の佐原氏の三浦盛時により再興され、戦国大名の相模・三浦氏へとなるのである。 
戦国初期の1516年に、相模地方に勃興してきた後北条氏(鎌倉北条とは異なるため・・)の北条早雲の大軍に攻められ、事実上、三浦氏は滅亡した。

次回は、 「東勝寺跡・高時やぐら」   Part3(東勝寺跡・・)へ

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