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古都鎌倉 (22)
古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」    古都鎌倉(23) 満福寺 「義経の腰越状1,2」
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古都鎌倉(22) 「稲村ヶ崎と七里ケ浜」



写真:稲村ガ崎から七里ヶ浜と江ノ島遠望(碑には「かながわ景勝五十選:稲村ガ崎」とある)



鎌倉幕府、断末魔・・!!、新田義貞が駆け巡った地・・、

材木座海岸、由比ガ浜、稲村ガ崎、七里ヶ浜そして江ノ島と湘南海岸に面した秀美な景観が続く。この「稲村ガ崎」、「七里ヶ浜」にもそれなりの歴史余話があったので紹介しておこう。

鎌倉幕府の140余年にわたる北条家の長期政権も、どうやら綻びが見え始め、凋落を辿るようになる。鎌倉末期、いわゆる、南北朝時代の主要な登場人物は「太平記」等でお馴染みの後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、そして新田義貞など著名な人物が次々登場する。


其の頃、鎌倉では・・、

鎌倉期の幕末、上州・新田軍は鎌倉周辺の自然の要塞ともいわれる極楽寺坂、化粧坂(けわいざか)、巨福呂坂(こふくろさか)などの北条幕府軍の防衛網を突破することができず苦戦していた。 
この当時、新田家も御家人として鎌倉に屋敷を持ち、義貞は数度この地を訪れていた。 
義貞は鎌倉の様子を、周辺三方を小山に囲まれた天然の要害であること、その間にいく筋かの「切通し」があり好守難攻の地であること、そして「稲村ガ崎」の海岸に立ち、潮の具合もある程度承知していたはずだった。
新田義貞は、切り通しで苦戦する中、迂回して海岸へ向かった。
そして、この海に祈りを捧げ、家宝の剣を海中に投げ入れると、潮はたちまち引いた。
騎馬武者は稲村ガ崎の海ずたいを走り抜き、若宮大路、段葛を一騎加勢に鎌倉の府へと攻め上ったのである。


1333年、鎌倉・北条政権は遂に落ちたのである。
最後の執権は「北条高時」(既に「東勝寺跡・高時やぐら」の項で紹介済み)であった・。
新田義貞が無位無官の身で、日の目を見ることのない存在であったのが、たった150騎という少数で上州・新田郷にて挙兵して、それから、わずか14日の後の事だった。

新田義貞は、正統源氏・八幡太郎義家の直系の家柄で、河内源氏の一門として上野の国・新田郷に土着していた。 
元弘3年(1333年)後醍醐天皇による倒幕の宣旨(平安末期以降、天皇の命を伝える公文書)の呼びかけに応じ、一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵した、義貞32歳である。
新田軍は東山道を西へ進み、上野国の守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡子・千寿王(足利義詮)の軍と合流する。嫡男を奉じた新田軍は数万規模にも膨れ上がったと言われる。

源頼朝、新田義貞に共通するのは、必ずしも多くの勢力をもつ武士団を統率していたわけではなく、頼朝も石橋山の合戦に立ち上がった時は少勢であった。
それに、もともと源氏色の濃い関東武士団であり、平家の出である北条政権には少なからず反感をもっていたし、常に八幡旗の下に統領を求めるのが関東の武士団の特性でもあったともいわれる。

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指ヶ原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、遂に幕府軍と衝突する。
兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏(埼玉県川越市)ら武蔵の諸侯の援護を得て新田軍は次第に有利となる。
新田軍は一度は敗走するが、翌日には援軍に駆け付けた三浦義勝(相模の国)ら数千の兵を合わせて、分倍河原(ぶばい・東京都府中市多摩川河畔)で幕府軍を撃破する。

この頃、足利尊氏は幕府の命で京の反乱軍(後醍醐天皇、楠木正成等)を鎮圧すべく上京するが、民意動向により寝返って、鎌倉の出先である京の「六波羅探題」を逆に滅ぼしている。
これらの情報が関東の戦場にも伝わり、幕府軍内の謀反などがあって、戦況を有利に導いていったと思われる。 
藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面にわけて鎌倉への総攻撃を開始する。 
難攻するうちには新田義貞は「稲村ガ崎」へと向かうのである。  



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悲劇の浜・「七里ケ浜」・・、

湘南海岸沿いにR134が走っている。
稲村ガ崎から江ノ島辺りの七里ケ浜は、特に景色が良く、遠く富士を仰いだ北斎の絵にもなり、日本の渚百選にもなっている。
風が通るところで、そこそこ波もあり、今は若者のサーフィンのメッカになっている。 
稲村ガ崎あたりから名物の「江ノ電」も海岸近くをゆき、行合川の袂に「七里ケ浜」の駅もあった。


ここの沖合いで一昔前、或る悲劇が発生している・・!、

今では相当年配の方しか御存知無いかもしれない。 
明治43年1月、隣町の逗子開成中学のボートが風に煽られて沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡した。寒風吹きすさぶ中、雄々しき若者が懸命の命の叫びも虚しく、波間に飲まれていったのである。 
当時この事件は全国的に大ニュースとなり、数度映画化もされ、七里ケ浜哀歌として「真白き富士の嶺」で歌にもなっている。
この歌は悲しき唱歌として昭和の時代まで歌われていたが・・、いまでは遠い記憶になってしまったようだ。


『 七里ケ浜の哀歌 』(真白き富士の嶺、明治43年、愛唱歌) 
真白き富士の嶺緑の江ノ島   
仰ぎ見るも今は涙         
帰らぬ十二の雄々しき魂に   
捧げまつる胸と心         

ボートは沈みぬ千尋の海原
風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶ名は父母
恨みは深し七里が浜



次回は、 源義経の「満腹寺」     古都鎌倉(23) 満福寺 「義経の腰越状1,2」



        

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