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古都鎌倉 (25)
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古都鎌倉(25) 「常立寺」

常立寺


写真:枝垂梅で有名な「常立寺」ジェームズさん、写真拝借しました有難う。
(「常立寺」にてモンゴル勢関取一同:白鵬は当時大関・・「2006・4月」)




境内には、「元寇」前のモンゴルの使者・「五人塚」がある・・、

「江ノ電」で江の島駅、丁度モノレールの江ノ島駅の裏側に「常立寺」がある。寺院は、近くの龍ノ口刑場で処刑された人達を 弔うために建立されたお寺で、尚、モンゴルに所縁のあるお寺である。 知る人ぞ知る「枝垂れ梅」の名所でもある。

現在、大相撲界においてモンゴル勢(旧元)が数多く活躍していることは大抵の人はご存知であろう。
小生も微々ながら大相撲ファンの一人で、モンゴル力士といえば、先ず横綱・朝青龍 関脇・白鵬(当時・・、現横綱) 旭鷲山(現、引退)、旭天鵬、朝赤龍、安馬、時天空等。 

そして、この4月(2005)大相撲地方巡業として神奈川・藤沢場所が開催された。これに先立って、横綱・朝青龍以下、モンゴル出身の幕内・十両力士20余人が、場所前日に 片瀬の「常立寺」を訪問、境内にあるモンゴルゆかりの「元使(現モンゴル)・五人塚」へ参拝したという。



鎌倉期、蒙古(現モンゴル国)の 国王・「フビライ」は、大軍をもって日本に襲 来したが失敗した。
翌年の建治元年(1275年)今度は、五人の国使を日本に送り 降伏を要求してきたが、しかし時の鎌倉幕府はこれを拒否 、国使 五人を9月7日龍ノ口刑場で処刑し、死骸をこの常立寺に埋葬したという。

ここに五基の五輪塔が建てられ「五人塚」と呼ばれている。


鎌倉期、大陸の王国「元」はアジア内陸をほぼ制圧し、その後、朝鮮半島の「高麗」、中国南部の「南宋」を落とした。
当時、日本(鎌倉幕府)と南宋は交易関係にあり、黄金の国・日本の情報を得て、いよいよ日本に食指を延ばしてきたのである。
国王クビライは日本に通商を求めるべく使者を派遣するが断られる。
クビライは、その後も何度か日本に使者を出したが全て無視された。
この間、朝廷と幕府で話し合いをもち、朝廷内では「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、国書を黙殺する事になったといわれる。 
クビライはこれを機に、武力侵攻を決定した、「元寇」である。 「寇」とは外から侵攻することで、侵略する敵のことをいう。



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先ず「文永の役・・」 である・・、

文永11年(1274)高麗を出航した元軍は対馬、壱岐を襲撃し平戸の松浦党を全滅させた、そして遂に博多に上陸する。
戦役で外国軍が日本本土へ直接上陸したのは、この時と、後年、太平洋戦争で米軍が沖縄へ上陸したのと2度だけであったが。
日本側は少弐氏(しょうにし:武蔵国の武藤氏が大宰府の次官である大宰少弐に任命されたことから始まるという)や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結していた。


日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや少人数での先駆けを試みるだけで、たた一方的に損害を受けた。
しかし直後には集団戦術にも慣れて対応することができ、また増援の到着により反撃に転じた。 
海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止した。 
やがて日没とともに戦闘を解き、日本軍は「大宰府」に帰った。

一方、元軍は日本軍の抵抗のため海岸へ上陸したものの前進できず、終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの「元」の損害も大きく、軍の編成も崩れた。
元軍は、戦況を不利とみて大宰府攻略を諦め、博多に火をかけて焼き払い、船団へ撤退していった。
その後は日本軍の夜襲もあり、我先にと錨を上げて撤退し、おまけに、風雨激しき玄海灘で多数が遭難した。
翌日、元の船団は姿を消しており、「文永の役」は終結する。 
元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされる。日本軍は、初めて異国軍と戦い、武士達は面食らったらしい。

「やあやあ、我こそは・・・」と言って一騎ずつ戦う武士に対し、大男が集団で喚声を上げながら襲いかかり、又、兵器の面でも元軍は火薬を使い、その轟音と閃光には肝を冷やしたという。


さて次に「弘安の役」であるが・・、
 

翌年(1275)クビライは再び日本に使節を送った。 
時の執権・北条時宗はこの使者を全員斬首に処したという。
これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察し、即ち、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。 
「元」は、使者が殺されたことを知らないままに新しい使者を送り、再び殺されている。(総計、5名という説が有力)

再度にわたる使者を処刑されて激怒した「クビライ」は、日本への再度の攻撃を計画した。
そして、文永の役から7年目(1281、)高麗軍を主力とした東路軍四万と、旧南宋軍を主力とした江南軍十万、計14万の軍が日本に向けて出発した。 
しかし、日本側は既に、海岸一帯に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20Kmにも及ぶ防塁を築いてこれを迎えたのである。 いち早く到着した東路軍は防塁のない「志賀島」に上陸するが日本軍の「切り込み」を受けて惨敗している。



小生、西日本周遊の途中で福岡の「志賀島」に立寄っている・・、


福岡市(博多)の北部に、東西10kmにも及ぶ細長く延びた半島で、通常「海の中道」と呼ばれている。
ここへ上陸して内陸へ攻め込もうとしても、難攻好守の地であることは明らかで、地形を知らない元軍は日本軍の餌食になった。今ではこの地は主に海のレジャー基地になっているが。

「文永の役」によって元軍の戦法を承知していた日本軍は優勢に戦い元軍を海上に追い落とし、更に積極的なゲリラ戦術により大いに元軍を悩ませたという。
大陸育ちの精悍な荒くれも、こと海上では要らぬ時間を費やし、士気は全く衰えていたし、飲食料の調達も大変なはずであった。 
そこへまたまた暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの必死の状態となっていて、これを好機と見た武士らは勇躍して元軍に襲い掛かり、元軍を殲滅したという。
元軍で帰還できた兵士は後に開放された捕虜を含めて全体の1、2割だとも言われる。尚、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえずに殺害したが、かって日本との交流のあった「南宋人」だけは捕虜として助命したという。
それ以降、博多の唐人町は「南宋人」の街であるともいわれる。


この戦いによって元軍の海軍戦力の七割以上が失われ、残った軍船もかなり破損されたという。
近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から農業用の鋤(すき)や鍬(くわ)などが見つかり、このため、戦争に勝利した後には入植を目的とし、明確に侵攻侵略を意図したものと見られている。
通説では14万人という過剰な人員も、そのために必要だったと考えられているし、実際の  「戦闘員」はかなり少なかったのではないかとも云われる。 
この時の日本軍は10万人を超え「元」よりも兵力は多かったともいわれるし、元よりこの時期は、北条・鎌倉幕府の絶頂期でもあったのだ。


「元」の使者を斬首したのがこの地「龍の口刑場」で、後の世、この地に「常立寺」を建立し彼等を弔っている。 
日蓮宗の龍口山・常立寺は、總寺院・龍口寺を護る寺の一つになっていて周囲に八ヵ寺(本蓮寺・常立寺・東斬寺・勧行寺・本龍寺・妙典寺・本成寺・法源寺)があり、明治時代まで順番で龍口寺の行事などを執り行ったことから「輪蕃八カ寺」と呼ばれていたという。

本稿案内は一旦終了しましたが、序ながら、「鎌倉のまとめ」をしてみました。

次回をどうぞ。    古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ」



        

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