古都鎌倉3-2

古都鎌倉:part3-2(鎌倉宮、瑞泉寺)   Part4(杉本寺、建長寺)へ
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古都鎌倉(11) 「鎌倉宮・護良親王の墓」


鎌倉宮


写真:「大塔宮・鎌倉宮」と裏手にある土牢(下左)及び親王墓墳
 


「建武の新政(中興)」と護良親王・・、

再び八幡宮の北東部の奥の方を目指す、そこに「大塔宮・鎌倉宮」、そのまた奥の階段を登った先に「護良親王の墓」が在る。

鎌倉時代末期の頃・・、
京では後醍醐天皇が中心となって倒幕の機運がもり上っていた。
しかし当初は失敗して天皇は流刑の処分にあい隠岐に流される。この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となって「大塔宮」と称していた。
武力を元にした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」(もりながしんのう)と名乗っている。 
親王は、楠木正成らの反幕府勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々として二年にわたり鎌倉幕府軍と戦い続けることになる。 
今でもこの地方には親王の所縁や痕跡が残っている、紀州の大塔村は親王の名を記念して付けたものといわれる。


この時期、関東・足利に勢力をもつ「足利高氏」(尊氏)が鎌倉の命で、天皇派を一掃すべく上京するが、途中で寝返り鎌倉の京の出先機関である「六波羅探題」(鎌倉幕府の出先機関)を攻めて、これを滅ぼしている。 
又、1333年、後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨(りんじ:天皇直々の命令書)を再び発し、これを受けた上野の国・新田の郷の勇士・「新田義貞」は、鎌倉幕府の本拠(最後の将軍:北条高時)を攻めてこれを滅ぼしている。

北条・鎌倉が滅んだ後、護良親王は京へ戻り後醍醐天皇とともに新政を開始する、(建武の中興)。 
親王は公家でありながら征夷大将軍に任ぜられ、足利尊氏は鎮守府将軍となった。 
しかし、所詮は公家と武将、次第に尊氏と反目しあい、父の後醍醐天皇とも折り合いが悪くなり、遂に、尊氏暗殺のため兵を集める。
しかし、このことは見事に失敗している。 結果、皇位収奪を企てたとして謀反反乱のかどで捕らえられる。

親王は、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ護送され、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれる。 
親王は、ここ鎌倉宮:往時の東光寺の岩牢に閉じ込められた。 
その後、建武2年(1335)鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた直義は、逃れる際に親王を暗殺してしまうのである、親王は若享年28歳であった。

その後、後醍醐天皇の強引な政治手法に反感した足利尊氏は天皇を追放して、京に光明天皇(北朝)を擁立、一方後醍醐天皇(南朝)は吉野にあって政権復帰を覗うが。
所謂、この先50数年にわたり南北朝時代の動乱の時代へ突入するのである。(太平記) 


1338年、足利尊氏は京・室町で征夷大将軍となり、室町時代の足利幕府を開く。
だが、足利時代、所謂、「室町時代」(1338〜1573)は、南北朝(1336〜1392)の動乱、応仁の乱(1467〜1477)、そして幕末の戦国時代(北条早雲、1495〜・・)と混乱の時代でもあった。


「鎌倉宮」は大塔宮・護良親王を祭神とした・・、


明治2年に明治天皇の勅命で創建された神社である。 宮は、親王が幽閉されていた東光寺跡(現在の鎌倉市寺分の天照山「東光寺」とは異なる)に建てられ、本殿の裏手には親王が幽閉されていた間口・奥行4m、深さ3mの「土牢」が今も残っている。 
なお、護良親王の「墓稜」は鎌倉宮から徒歩3〜4分の山腹にあり、急な石段を登った、昼なお薄暗いところに、菊の御紋を飾った小社が鎮座している。 小社には俗人が立ち入らぬよう柵が施してあった。

次回は、 「瑞泉寺」

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古都鎌倉(12) 「瑞泉寺」



写真:瑞泉本堂と瑞泉岩屋


 禅の心: ”世は動である、しかし、動の中に静を求める”・・、


鎌倉駅徒歩から徒歩で30分、または京急バス鎌倉駅から大塔宮方面へ、二階堂地区の最奥部山裾に「瑞泉寺」は静寂な佇まいの中に在った。本堂裏手は、岩山になっていて、くり貫いた岩屋の前は、草木に囲まれた小池が寂として佇んでいる。
某人が岩屋で座禅想に耽って居る時、池面に、満ちた月が映っている、しかし、その月は、いつしか移りゆき、消えうせていた。「世は動である、しかし、動の中に静を求める。 今は静である、しかし、静の中にも動がある」 微かに落ちる水の音と小鳥の啼く音、静寂の風景の中にこんな想像をしてみたが。

室町時代にかけて臨済宗の黄金時代を築いた「夢窓国師」は、足利尊氏・直義兄弟の篤き帰依を受け南北朝時代の動乱の渦中にありながら良く出家者としての中庸の立場を保ちつつ、南北両朝の天子(天皇及び一族)たちの精神的指導をなしたともいう。 
師は、後醍醐天皇を初めとし多くの天皇より国師号を賜り、「七朝国師」といわれるほど尊崇されていた。
更に吉野朝廷と京都側との講和を図ったり、尊氏兄弟の和を図ったりしたために権勢に近づき政治的手腕にも長けていたが決して介入はせず、寧ろ権勢に参加することを拒否した高潔な禅僧であったという。

国師は各地に禅寺を創生、中興し、併せて禅流の思想にもとずく庭園を創作したことは、よく知られ、この瑞泉寺の庭園が各地の国師庭園の大基になっているともいわれる。
特に著名なのが京都の苔寺・西芳寺や天竜寺の庭園であるが。 庭は、中腹の鎌倉石の岩盤に滝、池、中島等の全てを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流すなど、岩庭と呼ぶに相応しい庭園である。 鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されている。
本堂裏の庭園から「天園ハイキングコース」が敷かれている。

この鎌倉の丘陵地帯であるハイキングコースは別名「鎌倉アルプス」と呼ばれ、市街を囲むように延びている。 
南面には相模湾が広がるが、他の三方向は山に囲まれているため、天然の要塞の様になっている。因みに、この事は源頼朝が平家の大軍を迎え撃つことになるかも知れないという思案の元に、鎌倉を永住の地と決めた経緯にもなったともいわれる。

庭園の裏山の山上には国師が開いた「偏界一覧亭」(へんかいいちらんてい)が在ったという。 ここで鎌倉五山の僧を招いて、よく詩歌を詠み、勉学に勤しんだという・・、これが「五山文学」発祥といわれた。 
五山文学とは、夢窓国師を中心とした禅僧によって生みだされた漢文学で、臨済宗の奥義を吟味しながら詩文を中心に禅義、法語、日記、随筆、紀行文などと多彩で、一山・疎石(夢窓国師)の門下によって五山文学は一層栄えたという。
現在、コースからは木柵で閉鎖され、行けないようになっているが、名残の小堂が残っているようである・・?。 その前に碑文が立っていて一部に、


  『 前もまた 重なる山の 庵にて 
                   梢(こずえ)に続く 庭の白雲
 』


と夢想国師がこの亭で詠んだものと伝えられている。

瑞泉寺」は、室町期の鎌倉公方(京・室町の征夷大将軍が関東十ヶ国における出先機関として設置した鎌倉府の庁、関東公方ともいう)の代々の菩提寺であり、本堂前の大庭園は百科の花が咲き誇り、特に「梅」は有名である。


門前に「吉田松陰」の碑が在った。
吉田松陰が江戸遊学時、時折ここ瑞泉寺を訪れている。 
当時、この寺の住職である名禅僧「竹院」は、松蔭の伯父に当たっていた。
松蔭は、江戸期の官学である朱子学を中心とした教育をうけていた。
朱子学者は異教である仏教、特に禅宗を敵視する傾向が強い学問であるといい、ために仏教に対する警戒心が有った。朱子学では学問的な理性の自己実現という命題があり、従って、禅宗でいう「悟り」とは実体が無く、道にも外れた空理であると断じ結論付け、排撃といってよいほどの姿勢に転じている。 

しかし松蔭は、学問的偏見や肩書きには捉われず人を見る洞察力、判断力があった人物である。 
松蔭が初めて江戸に来た時に早速訪れて、この禅僧とじっくりと話し合い、詩文から禅宗の高等理論まで様々談論している。


「死して後、已む」・・、

松陰は、『死して後、已む』という格言を会得している。 
松蔭の実践思考と禅宗の考え方が一致したのである。
「已む」(やむ)とは・・、長く続いている現象や状態が自然に止まり消え失せる意で、自然現象などが時が来て消え失せる、お仕舞になる、続いていたものに決まりがつく、落着する、後が続かなくなる、物事が中止になる、病気・気持などが治まる、癒えるといった意味合いをもつ。

松蔭は、嘉永6(1853年)年6月、ペリー率いる米艦隊4隻がやってきた直後、その様子をつぶさに観察し、その後、「瑞泉寺」を訪れている。 
竹院が見るところ、この日の甥御はどこか様子がおかしかったという。
そして松蔭が切り出した話に竹院は驚愕した。 話は、長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである。
しかし、竹院はこれを「貴」とした、そして、路銀の足しにとして金三両を渡しているのである。 そして、10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった。

それからの安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊が前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れている。 
そして、あの吉田松陰の密航事件が発生するのである。
ペリー船が再航した際、門弟と二人(金子重輔)でポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されている。その後、幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されるのである。

尚、「吉田松陰」については「日本周遊紀行」の巻頭に若干の記載が有り、更に、山口「萩」の項で詳細を述べる予定です。

次回は、 「杉本寺」   Part4(杉本寺、建長寺)へ


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