古都鎌倉4-2

古都鎌倉:part4-2(円覚寺、明月院)   Part5(東慶寺、常楽寺)へ
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古都鎌倉(15) 「円覚寺」



写真:円覚寺本堂仏殿、 


「円覚寺」は北条家の私的な性質をもつ寺院で、私寺ともいわれる・・、

建長寺から更に鎌倉街道を北に行くと、やがてJR横須賀線が右手に現われる。
間もなく北鎌倉の駅だが、その直前に池を挟んだ線路の向こう側に広大な伽藍が見えてる、「円覚寺」である。 円覚は、「えんかく」でなく「えんがく」と濁って読むらしい。

大きな石柱に刻文が「臨済宗大本山円覚寺」とあり、同じく左側に「北条時宗公御廟所」とあった。
階段を上がると、やがて巨大な総門が出迎える、その後背に山門、仏殿、方丈と段階的直線に並ぶ。 更にその奥に各塔頭(たっちゅう)が配置されている。
「塔頭」とは、本寺院内にある小寺院・支院、分院を指す。

円覚寺の塔頭の数は、現在の鎌倉の寺の中では一番多く18ヶ寺あり、最盛期には40数箇所あったとされる。 鎌倉には、円覚寺を頂点とした同じ宗派の寺で東慶寺(後述・・)、浄智寺、瑞泉寺といった臨済宗円覚寺派のお寺がある。

北条時宗の父、時頼が創建した建長寺が官営的性格の強い寺院・官寺に比して、こちら「円覚寺」は北条家の私的な性質をもつ寺院で、私寺ともいわれる。 
建長寺を開山した高僧の「蘭渓道隆」はすでに没していたため、やはり中国の高僧・「無学祖元」を招いて鎌倉幕府八代執権北条時宗により創建され、1282年に完成している。

無学祖元は、「弘安の役」(元寇・蒙古襲来)直前の世情騒然たるときに中国より亡命同様に日本に帰化している。
多くの武士たちの精神的な指導者となり、武士階級に臨済宗の教えを浸透させる基盤を培った。
僧は一時期、円覚寺と建長寺の兼任座主を務めながら多くの弟子を育てるが、後に五山派の主流となった「夢窓疎石」(夢窓国師)を輩出している。

創建の目的は主に、鎌倉時代に時の執権・北条時宗が、この時代におきた元寇・「文永の役、弘安の役」の戦没者を追悼供養する為に建てたといわれる。 
北条得宗家の祈願寺で、鎌倉時代には北条家によって手厚い保護を受けた。
円覚寺は、鎌倉五山・第二位の寺挌である。

山門より右手高台に大きな梵鐘がある、ここでは洪鐘(おおがね)と称しているが、さすがに大物で大晦日NHKの除夜の鐘でもお馴染みである。 国宝指定。


余談になるが・・、


総門前、JR線踏み切りの向側に池がある、「白鷺池」(びゃくろち)というが円覚寺境内に含まれるという。
明治期の戦時たけなわの頃、軍港・横須賀へ鉄路を引くため、時の政府による強引な申し出によって境内を分断する破目になったといい、これが今のJR横須賀線である。

次回は、 「明月院」

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古都鎌倉(16) 「明月院」



鎌倉石と紫陽花の参道


明月院本堂(方丈)、



ご存知、「あじさい寺」、「花の寺」として有名である・・、

この寺院は、鎌倉でも一、二をあらそう程人気がある、「あじさい寺」、「花の寺」として有名である。 本堂の名前は、その名も「紫陽殿 (しようでん)」(あじさい殿)と称している。
未だ紫色の花を着けている「紫陽花」が、磨り減った「鎌倉石」」の参道階段に迫り出していて、さすがに何とも美風流である。

「鎌倉石」は、三浦丘陵の鷹取山地層から切り出された黄褐〜褐〜青灰色の比較的柔らかい石材石質で、鎌倉時代から利用され昭和初期まで採掘されたといわれる。

紫陽花は雨模様に似合う花であるが、今日は熱き日差しを浴びてチト気の毒であるが、一般には青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいわれる。 
ここにあるアジサイは、日本古来からの「姫あじさい」という品種で、花は淡い青から日ごとに濃い青に変わっていくという。 


山門をくぐると、そこは本堂になっていて、正面には「枯山水」の庭園が広がっていた。
枯山水庭園」は、中国古来の山水画の影響による造園手法で、水や流水を用いず、石組を主とし山水を表す庭園である。
水面(湖水、海面)を表すのに砂や微細石による表現「砂紋」は大きな特徴のひとつ。 
本堂横は、鎌倉でも最大級の「やぐら」があって、時の権力者・北条時頼の坐像が祀ってある。

明月院を含むこの辺りおの地域一帯を「山ノ内」という地名になっていて、往時の関東管領「山ノ内上杉家」の所領であった。
「明月院」の開祖は12世紀の中期頃で、当初は明月院とは云わず、1380年頃までは「禅興寺」と称していたらしい。
明月院は、その禅興寺の塔頭の一堂とされていたが、その後、上杉憲方の子孫によって大規模に発展し、塔頭というよりも一つの寺院として風格を備えてきたとされる。
上杉憲方の法名を明月院と号したが、上杉家はご存知「上杉謙信」の祖である。因みに、禅興寺は明治初年に廃寺となっている。


序ながら、名門・「上杉家」を辿ってみよう・・、
 

上杉の発祥地は丹波の国・上杉庄(京都府綾部市)を領して上杉を名字とし、公家(朝廷に仕える貴族・文官)の家柄であったという。
室町初期、鎌倉公方・足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した。族は主に山内(やまのうち)と扇谷(おうぎがやつ・こちらも鎌倉の地名))二家が出たが、関東管領の職はもっぱら山内・上杉家の当主が独占した。 

戦国期に至ると、扇谷・山内両上杉家は新興の後北条氏(北条早雲が祖・戦国小田原の雄)に圧迫されるようになり、武蔵国に勢力をもっていた扇谷上杉家は後北条氏に敗れ滅亡する。 
上野(こうずけ・群馬)の国に所領を持つ山内・上杉憲政も、遂に関東を放棄して、越後守護代として勢力を張る長尾氏を頼り、関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲ったのである。 
この頃、小田原北条は、関東一円を制覇している。 
長尾氏は上杉と名乗り、景虎は初代越後・上杉藩主となる。

戦国たけなわの頃、二代目「上杉景勝」は豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となった。
北陸、出羽を平定し、領内に多くの金山を抱えて、その実収入は200万石と言われる大大名となった。 その後、1600年の「関ヶ原の役」に際して徳川家康に敵対し、敗将となって米沢藩30万石に減封されるに到る。
江戸期にはいって家督相続の件もあり、吉良義央の子綱憲が養子に入って半知15万石で家名存続することを許された。 
義央は(きら よしひさ)は通称は上野介(こうずけのすけ)、一般には「殿中、松の廊下の切られ役」(忠臣蔵)、敵役として有名である。
江戸後期には上杉鷹山(ようざん・治憲)が藩建て直しの為「殖産興業」を行って、財政を立て直したことは有名である・・。


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