古都鎌倉5-2

古都鎌倉:part5-2(高徳院、長谷寺)    Part6(光明寺、稲村ヶ崎)
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古都鎌倉(19) 「高徳院・大仏殿」





写真:高徳院大仏殿と大仏



鎌倉大仏は、浅草・浅草寺の極小観音と対比された。 さて・・、

この項から再び方位が変わる。
鎌倉駅より凡そ2km西の方向・長谷地区に高徳院大仏殿(鎌倉大仏)が鎮座している。


主題からチョット反れますが・・、



  『小粒でも 是見てくれの 大伽藍』


・・と、江戸川柳に歌われている。 

小粒とは実は東京・浅草の浅草寺『浅草観音』のことであります。
江戸浅草の浅草寺の御本尊・聖観音は一寸八分と小さいが、江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、参詣の人はひきも切らず、伽藍は坂東第一の大きさを誇っていた。
川柳のいう、浅草寺の小さな、小さな「観音様」と大規模な伽藍を吟じた句だが、その対比面白い。

小生、中学校(福島県いわき市)の修学旅行で、鎌倉の大仏を見学してた折、ガイドさんか誰かが・・謎々クイズをだして・・、

「鎌倉の大仏さんと、浅草の観音様が、東海道を同じ歩調で、向かい合うように一歩一歩、歩いた場合どの辺りで出会うでしょうか・・?、但し、浅草の観音様はここの大仏さんより、かなり小さめです・・」 

我々は日本橋、新橋、品川などと適当に答えを出したが、 答えは「雷門・・で―す・・」。 
因みに、浅草寺本堂と間に仲見世通り参道を挟んで、雷門までのおおまかな距離は400m位と思われる。 
事の真実はともかくとして、鎌倉大仏と浅草観音を対比したエピソードが面白くて、今でも記憶に残っている。 


そして、本題であります・・、


鎌倉の大仏、高徳院・阿弥陀如来坐像、凡そ700年前の鎌倉期に建造された青銅の大仏である。
奈良の大仏が戦火のため破損がはなはだしく、中世・近世の補修にて現在の姿になったのとは対照的に、こちらの大仏様は当時の姿をしっかりと残しているという。
「東鑑」(鎌倉時代の歴史書)には巨大な坐像の一部を書いてあるだけで、全体像は記してなく・・、元より建造の目的や年代等の詳細は不明だという。

当時の執権・北条一門が財力に合わせ、西方(京)への権力の誇示のために、新しい都市・鎌倉の入り口に当る当地へ建立したと言われるが、・・定かでない。
又、当時は疫病、難病が流行り、行き倒れや死人が続出したという、死体は由比ガ浜に捨てられ埋葬された。
これらを弔い、来世に導くために「円応寺」(最初、鶴岡八幡宮の正面の海辺にあったが、元禄の地震・津波で堂が破損したため、現在の北鎌倉へ移ったとされる)が建立され、同時に死者を裁く「閻魔大王」(円応寺のは時の運慶作で、笑い閻魔とも言われる・・閻魔帳の起こり)が主仏として鎮座した。
裁かれた死者で生前、悪行の有った者は餓鬼、畜生の地獄へ送られ・・、善行の有った者は、「長谷観音」の下へ、更に、西方の大仏(阿弥陀如来)のおわす極楽浄土へ参らせたといわれる。
謂わば、民衆の平穏を祈っての創建であることも確かであろう・・。

鎌倉唯一の国宝仏で、奈良の大仏が天皇勅願によって創建されたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財で造られた庶民のための大仏さまであるという。
初めは木造の大仏で、奈良の大仏と同様に大仏殿(御堂)があったが、天変によって倒壊し、次に青銅の大仏が屋外に鋳造されたとある。

大仏は120トンもの青銅で出来ている。これだけ大規模で、しかも精巧に仕上げるには、大変な技術を要したに違いない。
国内でも大変高度な技術、屈指の技を持った職人たちが集められ、造られたものであろう、寺の誌史によると上総の国の鋳物師・大野五郎右衛門が尽力したと記録されている。

小生、この大仏さんは幾度か拝観したことがあったが、天井もなく、風に吹かれ、雨に晒されての「露座の大仏さま」は今でも変わらず、禅想に耽り、鎮座している。


『 鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 
                美男におわす 夏木立かな 


これは有名な与謝野晶子が鎌倉の大仏を詠ったもので、境内に歌碑もある。

晶子女史が「美男におわす」と詠っている大仏だが、美男子かどうか・・?というのは小生・男性につきハテナマークもあるが、言われてみれば鼻筋が透って、端正な顔つきであることは確かなようだ。


さて、この鎌倉の大仏は一体だれが造ったのか、造らせたのか・・?、

一説によると、発案は源頼朝ともされている。
鎌倉時代といえば文化面でも大きく飛躍した時代であった。
武士や庶民の新しい文化が台頭し、以前の貴族文化と併せて、文化の二元性が出現した時代であるという。
特に鎌倉仏教界にあっては、今まで貴族中心の宗教であったのが、新幕府が中国渡来の禅宗を篤く信仰するようになり、新しい鎌倉文化を花開かせた。これらが浄土や日蓮宗と合わせて広く一般庶民まで普及したのである。 
また工芸などの職人的技能士なども多いに広まったという。

そんな中、世情は大飢饉(1230年前後)など、飢えや苦しみの惨状があったともいう。
鎌倉大仏はこんな時代背景もあり、時の権力者の援護をも得て、大衆庶民の要求に答えたものといえそうだ。大仏様は今でこそ緑青(銅のロクショウ、錆びを護る錆)の姿をしているが、完成当初は全身金箔を施した華麗な姿であったという、現在も一部にその跡が見られる。 

また、この大仏は胎内拝観(数十円の布施)も可能である。
急な階段を登った、いわゆる中腹に見学用の台座がある、外観の大身美に比べ、窮屈に感じられるが、背中からの明り取り(光明)が何となくユーモラスである、「後光が胎内に射す」といったところか。

次回は、 「長谷寺」


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古都鎌倉(20) 「長谷寺」






写真:長谷寺庭園の卍池と「本堂」及び木造十一面観音立像(本尊:像高9.18m)



日本三大長谷寺(奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺、三番目は・・?)、

大仏さんの前の道路はお土産屋が並んでいて賑やかである・・、が車の通りが頻繁なのが些か難儀である。
長谷寺・長谷観音」は、大仏さんから2〜300m南の方角へ行ったところに在った。
広い駐車場の入り口近くに拝観料の受付がある。
昨今は些か有名になると何処も拝観料を取るようになり、数多くの寺社を巡る時、駐車場料金等を合わせると拝観数にもよるが少なからずの出費である。 

立派な門かぶりの松を抱いた山門を入ると、すぐに緑濃き回遊式の庭園が控え、四季折々の花が取り囲む、実に美的景観である。
つずら状の階段をゆくと、間もなく煌びやかな本堂に出た。近年に再建された本堂の中は、鎌倉時代の作とされる9mもの巨大な観音像が立つ、その金箔は、足利尊氏の寄進と伝えられる。 

由比ガ浜が一望できる広場の一角に、「経蔵」があって目を引いた。
先般、京都の嵯峨野の「清涼寺」を拝観した時、同じ造りの「経堂」があったのを思い出した。 回転する「輪蔵」があり、その中に一切経の経本が収められている。 人の手によって一回周すると、一切経読誦の功徳があるといわれる。
経蔵、経堂とも「浄土宗」特有の建物で、釈迦の教えである経典「一切経」が内臓されている。 
他にも長谷寺は梵鐘や弁天堂と洞窟佛と見るべき所は多い。


鎌倉には七十余の寺があるといわれるが・・、

大仏さまと長谷観音が最も有名で、八幡宮周辺の史蹟と共に鎌倉観光のベストコースになっている。巡礼者のほか、多くの一般の人々が日々参詣している。坂東三十三観音の第4 番札所である。

私事になりますが・・、
小生宅のすぐ近くに「飯山の観音さん」「縁結びの観音さま」として知られる長谷寺(通称飯山観音、神奈川景勝五十選、花の名所百選)が在る。 
桜の名所で、春にはお花見客でも賑わい、坂東三十三ヶ所巡礼の第六番札所である。小生の第一子が誕生した折、こちらの観音さんで「御七夜」の祈願を行ったところでもあった。

「長谷寺」は、信州善光寺や京都清水寺など名の通った寺院とともに全国的な広がりのある寺院であり、一般に「長谷観音信仰」といわれている。
その根本に位置するのはご存知、「奈良大和の長谷寺」である。
観音様は、「本尊十一面観世音菩薩」といわれ右手に錫杖を執り、 方形の台座に立つ、 いわゆる 「長谷寺式」 と称する独特の形式で現代に至るまで広く信仰を集めているという。

日本三大長谷寺(大和・奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺、三番目は各寺が名乗りを上げてるらしいので即断は出来ないようだ)をはじめ、長谷寺の分布は全国に200個所以上の関係寺院があるという。その開祖の歴史は古く、奈良朝の初期までさかのぼる。 


播磨の國の「徳道上人」が楠の霊木から十一面観音を刻み、これを本尊として大和の国に長谷寺を開創したのが始まりといわれるが。


ついでに・・、
ある日、徳道上人が病のため危篤状態になってしまう、そのとき、夢の中で閻魔大王が「おまえはまだ死ぬことは許さない。三十三カ所の観音霊場を造り、人々に巡礼を勧めなさい」と言われた。
お上人は、それに従って、三十三霊場を定め、最初に巡礼を行ったのが大和の国・長谷寺だといわれている。 
しかし、この当時は三十三霊場は世の人の信用を得られずに巡礼はあまり発展しなかったという。 
時代はやや下って、平安中期以降になって長谷寺は観音霊場として貴族の間で信仰を集め、さらには武士や庶民にも信仰が広まった。
その後は、地域を問わず、 時代を問わず信仰の広がりをみせ、特に勧化(かんげ・仏の教えをすすめること)という手法によって諸国に霊験を説き、 人々に伝播していったのであろう。


そして鎌倉であるが・・、


天平八年(736年)、そのころ勧化に出て、諸国を行脚していた徳道上人は小田原の近くの里に至った。その夜、老僧が霊夢に現れ、「我は汝が本願の楠木の観音なり。今、縁に従って由比ヶ浜に出現せり」と告げた。夢から覚めた上人は、急ぎ鎌倉に行き、尊像を拝して御堂を建立したという、鎌倉・長谷観音の開山である、
長谷寺」は、鎌倉の海が一望できる風光明媚な高台の位置にある。

次回は、 「光明寺」  Part6(光明寺、稲村ヶ崎)

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