古都鎌倉6-2

古都鎌倉:part6-2(満福寺1,2)   Part7(滝口寺、常立寺)へ
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古都鎌倉(23) 満福寺 「義経の腰越状」





写真:満福寺階段参道と本堂、本堂襖絵(義経と腰越状の絵)


「満腹寺」は江ノ電・腰越駅の至近にあり、「源義経」に縁のある寺院である。
  
『・・源義経おそれながらもうしあげます。 気持ちは鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって、父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていたのに、はからずも、あらぬ告げ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、お叱りをうけ、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。あらぬ告げ口に対し、私の言い分すらお聞き下さらないで、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝えできず数日をこの腰越で無駄に過ごしております。あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にお会いできず、兄弟としての意味もないのと、同じようです。なぜかような不幸せな巡り会いとなったのでしょう・・、』

有名な義経が兄頼朝への嘆涙の「腰越状」の一端である。


海岸沿いのR134から小動岬の手前を江ノ電に沿って右折すると、すぐに「腰越」駅がある。
右手に 「義経腰越状旧跡 満福寺」 の石碑が目に付く、お寺の目の前を江ノ電が走っていて踏切を渡るとすぐにお寺への階段になっている。

NHK大河ドラマ:「源義経」の影響か、赤青の旗のぼりが立っている。 源平の義経であるから「白」又は、「赤白」でいいものを、と思うのは余計だが。
今は訪れる人もなく静寂の中に本堂はあった。これまで大伽藍を目にしてきたためか、思っていたより小さなお寺であった。
お寺の地域は江ノ島の近くで藤沢市に近いが、鎌倉市腰越である。  ただ、往時としては鎌倉府からは遠い距離にあって、他国、又は隣国のような地であったのだろう。
その昔、今から約800年も前の世、ここに「義経」がいたのだ、と云うより留め置かれていた、と言ったほうがよかろう。


何故・・?、この地に義経が、を主題に・・、 

本堂の正面頭上に木彫りの精密な彫刻が施してあり、それは「義経が弁慶に、例の『腰越状』を本筆又は清筆させている風景であった」、その「腰越状」は満福寺本堂・玄関ショーウインドウで見る事が出来る。

本年(2005)NHK大河ドラマ「源義経」もいよいよ佳境に入ってきた。 
義兄弟の木曾義仲を打ち破り、一の谷、屋島、そして壇ノ浦で平家一門を壊滅させた。 
その最大の功労者は源義経であることは衆人が認めるところである。
しかし、その戦功を上げるに逆比例して、兄頼朝との間が遠のき、軋轢を生じ、遂には殺してしまうのである。 
英雄義経が哀れな失脚をしたのは、一般に兄に憎まれたためといわれる、「判官びいき」という言葉があるくらい、この武将の悲劇的な末路に我々は同情的である。
それが為、現世までいろいろな形で語り継がれている。


義経は、兄頼朝の代官として「西国攻め」に出陣し、その期待に応えて義仲も平家一門をも滅亡に追い込んだ。 ところが、その彼に頼朝はろくな恩賞を与えない。
・・・これには後例がある、徳川家康が天下を掌握した折、大名衆は譜代(代々その主家に仕えること)大名と外様(譜代以外の外部)大名に分けられるが、その時の恩賞は外部に多く、身内に少なかった、それどころか一旦与えた恩賞を取り上げてしまうこともあった・・・。

実兄・頼朝は、鎌倉まで来て弁明しようとした義経を腰越に止めて、対面もせず都に追い返してしまうのである。
源平合戦の最終局、「壇の浦の合戦」で平家の総帥であった平宗盛は、その最後があまり見苦しいので平家の侍達に海の中へ突き落とされたが、泳ぎが達者だった宗盛は死のうとしないで泳ぎ回っているところを他の侍に助けられたと言われる。 
合戦後には源義経に捕らわれて鎌倉に送られる。 その時、宗盛は頼朝に対面しているが、見苦しい様を見せて頼朝を呆れさせ、鎌倉方の侍達の笑い物になった。 この時、宗盛親子を捕虜として連れてきたのが義経であった。 この事は「若宮大路と段葛」の項で既に述べた。

腰越の地に止めおかれて、義経が腰越状を書くに至った場所がここ「満福寺」であった。
満福寺に5月15日から6月9日まで滞在したといわれる。  この間義経は、頼朝宛に異心のないことを切々とつずった書状をしたためた、世に言う腰越状である。
 
しかし思いは届かなかった。
その後、頼朝との敵対関係を知らされた義経は京に戻り戦線を開くが、既に戦意戦力は無く、追い詰められた義経はその後、態勢を立て直すべく九州へ逃れようとするが、嵐に遭い船は沈没、更に吉野山に逃れる。 
ここは愛妾「静御前」との悲しい別れの地でもある。静はこの時、義経の子を身籠っていたが、頼朝の追っ手に捕らえられ、静は母の磯禅師と共に鎌倉へ護送される。
鎌倉で無事出産したが、男児だったため由比ガ浜の海に沈められる。 

頼朝に命じられ、八幡宮の「舞殿」で舞ったのは有名な話である・・が、静は舞いながら


『 吉野山 峰の白雪  ふみわけて
                  入りにし人の  跡ぞ恋しき
 』
 
『 しづやしづ  しづのをだまき  くり返し
                 昔を今に  なすよしもがな
 』


と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが妻の北条政子がとりなして助けられる。

この吉野でも追われた義経は北陸路を辿って奥州へ逃れる。 また長い逃避行の後、安住の地を奥州平泉に求めた。しかし、養父と慕う藤原秀衡とは間もなく死別、その後ろ盾を失った義経は、頼朝指令によって、秀衡の子の泰衡の手により討ち取られ、その生涯を閉じた。

義経が衣川高館で討たれたのは、1189年4月30日のことである。 その首は黒漆の櫃(ひつ)におさめられ、清酒に浸されて鎌倉に送られた。 
しかし、首実検が行われたのは腰越の浜であり、「義経は首になっても鎌倉に入ることはできなかった」という。

更に、「義経の腰越状」に続く

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古都鎌倉(23) 満腹寺「義経の腰越状2」

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肉親であり、兄弟である頼朝、義経が何故不仲になったのか・・?、
その理由として世間では諸々言われてはいるが、それらの諸説について列記してみた。

讒言(ざんげん)説』: :頼朝は、突然奥州から現われた義経に疑念を抱き、代官・梶原景時にその行動を監視させた。一の谷の合戦以降、梶原景時の讒言(人をおとしいれるため、事実を曲げ、また偽って目上の人にその人を悪く言うこと)が義経に対する憎悪をさらに強めたといわれる。

藤原隠密説』: :西の平家と北の藤原家に挟まれた鎌倉・頼朝にとってはどちらも脅威であった。そこへ藤原家の家人「佐藤忠信・継信」を引き連れて義経がやって来た、義経はもしや藤原家の隠密では・・?と疑念を持つ。

戦功嫉妬説』: :余りの戦技、戦術、戦略(本当の意味の戦略があったかどうかは疑問、戦略は施策、政策、政治が絡む幅の広い意味で、むしろ頼朝にあった)上手に、ねたみ、恐れをなした。

『任官嫉妬説』: :京にあって公家、法皇と頻繁に接触し、勝手に任官した。

私情公情説』: :これは、お互いの思想、思考或いは哲学の相違であって、義経は身内、知人、周辺人に親しく、現実温情主義であった。頼朝は近隣御家人の組織均衡を重視し、未来志向主義で、遠く将来を注視していた。

兄弟不感説』: :義仲、義経、範頼と次々兄弟を抹殺してゆく、ここには兄弟という肉親の情は無く、善悪功利要不要の原理が先行する。この時代は親子といえども平気で争う時代であったのだ。

義経脅威説』: :義経の行動思考に劣等感を抱き、次第に脅威に感ずるようになる。又、奥州藤原氏が原因かもしれない。

御家人謀略説』: :特に北条氏は義経抹殺を望んだ。頼朝の係累がいなくなればなるほど北条氏の天下が 近くなる、現に二代頼家、三代実朝は北条氏による謀殺説がつよい。

源氏不称説』: :義仲 討伐以降、頼朝は身内、親類、係累に対して公式な立場では「源・源氏」を称えることを禁じていたようだ、これに対して義経の文面は度々「源」を用い、現に「腰越状」には末尾に「源義経」の署名がある。 これには頼朝は相当に不快感を示したらしく、さらに彼自身、源氏称には余りこだわってなかったようだ。

後白河法皇』: :平清盛の京での実権から、東国・鎌倉での頼朝の覇権に到るまで後白河法皇は院政を満足に執り行う事が出来ず、不満が生じていた。
こんな時期、義経に官位を授けたことから、兄の頼朝と軋轢が生じているのを知り、間に入って更に策術を弄し、兄弟の溝を深くしていった。 義経はその術中に完全にはまってしまった。 
頼朝に云わせれば、後白河法皇は「天下の大天狗」とやらであろう。
 

義経、頼朝は育った環境も違っていた、義経は幼少には京・鞍馬寺にあり、成人して遠方の地・奥州藤原家にあって人情の機微に触れ、現世に依存してゆく。
一方、頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で捕虜の身であるが、勉学、信仰に勤しみ、時には都の情報等を耳にしながら平家の状況など覗っている。 

近江の佐々木庄を地盤とする近江源氏嫡流の佐々木氏は伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく常時派遣し、頼朝旗挙げの際にも参画している。 
頼朝を育てる比企家の乳母の関係からも、何にかと知らせが入ってくる。その武蔵野国比企家からは比企能員(ひきよしかず)が通っている。
又もう一人の乳母の関係は京の公家・三善康信である、康信は流人の頼朝へ毎月三度も手紙を出し、そこには京の情勢が豊富に書かれていたという。 
又、流人の生活を過していた頼朝を京の僧・文覚が訪ね(伊豆に流されてきたらしい)、平氏打倒の挙兵を勧めている、当時、頼朝は無視しているが、腹に一物はあったろう・・?。 

頼朝は伊豆の空の下で、常に情報を得ながら、頭の中は遠くを見つめ、未来の構図を描いていたし、その中から確乎たる信念が芽生えていたに違いないのである。


義経は温の人、頼朝は冷の人と言われるが、しかし、新たな時代を切り開くには冷徹さが必要なのである。 
上に立つものは己の権力を強固なものにしないと、凡そ近世以前の政権など成立するはずもない。 何事も話し合いで仲良く、などというのは現代人の妄想に過ぎないのである。

頼朝自身は直接関与していないが、過去の平安末期の京の都では朝廷、貴族、武士団が相争うようになり下克上の世界が展開していた。
その頃、保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。
その「保元の乱」においては、頼朝の父・義朝と義朝の父(源為義、頼朝の祖父)や義朝の兄弟(頼朝の叔父)同士の肉親同士が争っている。
そして、義朝は敵方についた父・源為義と兄弟は皆、義朝たちの手によって処刑されているのであり、これらの事は、頼朝は当然知っているのである。 当時は、親兄弟といえども平気で争い、殺しあう、そうゆう時代でもあったのだ。

後の世に下り、新しき時代を切り開いた人物、織田信長、徳川家康、明治新政府を磐石たるものにした大久保利通、いずれも冷徹さを持ち合わせていた。
頼朝が義経を生かしておけば、必ずや義経を利用して叛乱を企てる(やから)が現れただろうし、また義経自身が叛乱を起こしたかもしれない。 つまり、このような時代なのである。

それに何よりの誤解は「義経に落ち度が無く、無実の罪で一方的に死に追いやられた」と、いくら本人に悪気が無かろうと、彼自身の思い込みや官位を勝手に受けたことは頼朝や関東武士団が苦労を重ねて築き上げつつあった鎌倉幕府を一挙に瓦解しかねない危険な行為、罪深い行いだったのである。 

嘆涙の「腰越状」を読むに当たって、頼朝は情に流されず、確乎たる信念のもとに冷徹な『』を下したのであった。

次回は、 「瀧口寺」     Part7(滝口寺、常立寺)へ

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