古都鎌倉7-2


    古都鎌倉:part7-2(まとめ1、2)   終   湘南編へ
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本稿案内は一旦終了しましたが、序ながら、「鎌倉のまとめ」をしてみました


古都鎌倉(26) 「鎌倉編まとめ」



鎌倉幕府の要人、御家人衆について・・、


相模湾に南面し、四方を山に囲まれた、この地鎌倉に源頼朝が入ったのが1180年、1192年には武家政権・鎌倉幕府を創生した。 
以来150年の間、鎌倉は日本の政冶の中心となり、それに伴なって鎌倉文化も華開いている。
現在、古都鎌倉を巡るとき、神社仏閣70数箇所、古跡名所を含めると実に300ヵ所以上と言われる。 

小生今回巡ったのは20箇所程度にすぎないが、各箇所においての歴史や文化の背景を探る時、若干でも往時の鎌倉が垣間見え、その時代の息吹きが感じられたのでは・・、やはり鎌倉は凄かった

尚、鎌倉開府の折、頼朝に伴なった創生人(家人衆)達を列記してみた。
そして往時の鎌倉を唄った、小学校唱歌「鎌倉」を付してみた・・。 


『 幕府御家人衆 (50音順) 』 

『安達 盛長』(あだち もりなが)
出身は陸奥国安達郡(福島県安達郡)・・?通称は藤九郎、妻は源頼朝の乳母比企尼の娘丹後内侍(宮中の女官)。 奥州藤原の氏流、 源頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。1180年の頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房に逃れる。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、奉行人として重用される。1189年、奥州合戦に従軍。頼朝亡き後、有力御家人となっていた安達氏は、執権北条氏に自分の娘を嫁がせ、執権の外戚として権力を振るった。また、同じ御家人で勢力を持っていた三浦氏との戦い(宝治合戦)に勝利するなど、一時は北条氏と並ぶ権力を持っていた。安達盛長の屋敷は現在の甘縄神社であった。 神社の前に「安達盛長邸址」の石碑が建っている。

『梶原景時』(かじわら かげとき)
鎌倉幕府初期の有力御家人。家系は桓武平氏の流れで、三浦家流派。頼朝の曽祖父 八幡太郎義家の家人として「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景政の末裔・・、子に景季がいる。教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出されている。1180年の石橋山の戦いで平氏に属し、敗軍の頼朝を見逃してその危機を救い、後に重用される。 頼朝の命により上総広常を謀殺。 源義仲追討軍に従軍。 平家追討に参加し義経の参謀、戦況を常時頼朝へ報告(一部、讒言ととられる)、その功で播磨、美作守護職を与えられる。 源義経が後白河法皇に頼朝追討の院宣を出させると、これを頼朝に知らせる。頼朝の死後は、源頼家を補佐する。1200年、所領の相模国一ノ宮より上洛の途中、幕府軍と戦闘、嫡子景季と共に討たれる。

『千葉上総介広常』(ちばかずさのすけひろつね)
千葉の豪族、千葉常澄の子、源頼朝挙兵の際は当初これに加担せず,同族の常胤が頼朝に加勢するに及んで,兵2万騎を率いて参陣した。 しかし彼の遅参を頼朝は怒り、会おうとしなかった。広常はその仕打ちに「これこそ大将の器」とかえって感じ入り、あらためて忠誠を誓った。富士川に参戦。坂東有数の大豪族という自負から驕慢なふるまいが多く、頼朝に勢力の強大化を恐れられ,1183(寿永2)年に謀反の嫌疑をかけられて梶原景時により殺害された。

『河越 重頼』(かわごえ しげより)
現、「川越」の豪族、平氏方。石橋山の戦いで敗れた頼朝が安房国で再挙して、武蔵国に入ると参陣・・、御家人として重く用いられる。一ノ谷の戦い後、頼朝の命により、娘(郷御前)を義経に嫁して舅となる。1185年、頼朝と義経が対立し、義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。同年11月、重頼は所領を没収され、間もなく嫡男の重房と共に誅殺された。しかしさすがに「あんまりだ」と思われたのか、その所領の大半は重頼の老母に譲渡された。なお妻は頼朝の乳母比企禅尼の娘である

『熊谷直実』(くまがい・なおざね)
通称、次郎直実・・、武蔵熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。
源頼朝の挙兵の時、初め平氏側についたが、のち源氏側についた・・、「平家物語」に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との対戦は有名である因みに。子孫は京都と東京で鳩居堂(銀座鳩居堂は地価日本一の所)という和文具・香道具屋を営んでいるといわれる。

『佐々木秀義』(ささきひでよし)
近江源氏嫡流、平安末期の武将。近江の佐々木庄を地盤、伊豆で流人生活をしていた頼朝を世話するべく、息子定綱・盛綱らを派遣した。頼朝旗挙げの際にも、定綱、盛綱のみならず次男の経高や当時京にいた四男の高綱をも呼び寄せてサポートした・・、その功により本領を安堵され佐々木庄へと戻る。平家の残党狩で近江権守を贈られる。

『土肥 実平』(どい さねひら)
生年不詳 ・・、実平は相模国西部の有力豪族・中村氏の出で、土肥郷(神奈川県湯河原町)を本領とし、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。石橋山の戦いで敗北すると、頼朝と共に落ちのび、頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。 この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。一ノ谷の戦いでは源義経に参軍。壇ノ浦後には平宗盛の護送もつとめた。
義経都落ちのあとは、京都の治安維持を任され、疑り深い頼朝にすら終生信頼され続けた稀有な武将である。1189年、奥州合戦に参加・・、この記述を最後に実平は史料から姿を消している。 しかし、実平の子孫は着実に有った、孫は安芸国(広島県)に移り小早川を名乗った。後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となる。また4代目は富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて、実平から800年以上土肥氏は今も繁栄を続けているという。富山周辺地域は今も土肥称が多い・・。

『土佐坊昌俊』(とさのぼうしょうしゅん)
渋谷重家(東京・渋谷地方の領主)の子。頼朝の父、義朝に小姓として仕えていたが,1159(平治元)年の平治の乱で義朝が敗れて横死した後は出家、その後,土肥実平の仲介で源頼朝に仕えた。
1185(文治元)年に頼朝の命を受けて京の源義経邸を襲撃(いわゆる「堀河夜討」)するが敗れ、斬首されたという。(義経が許して放免したとする説もある)

『那須 与一』(なすの よいち)
栃木・下野国の生まれ、与一は通称で本名は宗隆、妻は新田義重の娘。
「平家物語」には弓の名人で、源平合戦では源氏・源義経に属し、1185年の屋島の戦いで扇の的を射抜いた話が記されている。 80メートル先の的にでも当てることのできたとされる弓の名手。源平合戦後、鳥取城初代城主に任命される。

『畠山重忠』(はたけやましげただ)
桓武平氏の一党、 武蔵国男衾郡(おぶすまのこおり)畠山郷(現・埼玉県大里郡川本町)生れ。源頼朝の挙兵に対し、重忠は当初、平家側につき、祖父の三浦義明を討ち取った・・が、しかし源頼朝が鎌倉入りした際、重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った家宝の白旗(源氏の軍旗)を持って帰参し、頼朝の為、各地の戦線に参戦、忠勇無双の士として名高い。頼朝に九郎暗殺を頼まれて、これをきっぱりと拒んだという、九郎に理解を示していた数少ない坂東武者のひとりであった。頼朝の二度の上洛には、いずれも先陣を務めた。その後、北条時政から謀反の疑いを掛けられ、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において鶴ヶ峯の戦いに敗れ討死。

『比企能員』(ひき よしかず)
倉幕府の有力御家人。 源頼朝の乳母の比企尼の養子で、当初、藤四郎と称した・・、平氏追討に従軍。1189年(文治5年)義経の奥州征伐には北陸道大将軍に任命。源頼朝とともに上洛、右衛門尉に任ぜられる。頼朝の信任が厚く、上野国・信濃国守護に任命される。1199年十三人の合議制の1人に加えられ、梶原景時排斥にも荷担。 娘の若狭局が源頼家に嫁して、子、一幡を生み、外戚として権勢を振う。
威力権勢を振るう北条時政の追討密議が事前にもれ、時政の自宅で謀殺された。 さらに比企の屋敷(現:妙本寺)にも兵を送られ、若狭局や一幡ら一族を滅亡させられた。

続いて、Part2 どうぞ・・、

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古都鎌倉(27) 「鎌倉編まとめ」(2)



引続き、鎌倉創世記の主な武将について・・、


『北条 時政』(ほうじょう ときまさ)
北条幕府・初代執権
桓武平氏の流派、伊豆北条庄を拠点とした北条氏の当主。源頼朝が伊豆に流されその監視役となり、初期の勢力は、伊東や大庭に囲まれていたことから勢力的には不安定であった。
頼朝の登場により家運が上昇し、娘の政子が頼朝の妻となった縁から、幕府が創立されると重用され頼朝の外戚として勢力をふるう。 源平合戦の間はつねに鎌倉にあり、幕府創設に尽力した。 1199年、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や比企能員らを誅殺、さらに1205年には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼす。その後は子の北条義時と政子に強制的に出家させられ、隠居の身分となって以後、政治の表舞台に立つことなく生涯を終えた。

『北条 政子』(ほうじょう まさこ)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。 北条時政の娘、源頼家、源実朝の母で「尼将軍」と称された。鎌倉では頼朝の良き理解者、協力者、意見者であり、幕府創立の陰の功労者であった。1199年に頼朝が死去すると、落飾して尼御台と呼ばれ、2代将軍の源頼家を補佐し、父時政や弟の北条義時とともに北条氏による合議制を確立する。1203年には頼家を修善寺へ幽閉して殺害し、外戚として勢力を持った比企氏を滅ぼす。さらに義時とともに父時政を失脚させる。1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」では、動揺する御家人を前に頼朝以来の恩を説き鎌倉方をひとつにまとめる等、政治的辣腕を振るう。義時の没後は甥の北条泰時を執権に据えて、1225年に死去、享年68。墓所は神奈川県鎌倉市の寿福寺

『三浦義澄』(みうらよしずみ)
桓武平氏の流派、三浦半島に根拠をもつ名門で、平安中期奥州の乱(後三年の役)で源義家と共に活躍。 この時「義」の字を賜り、以降三浦家は「義」の名称が多く、同時に源氏方に成る。平安時代末期〜鎌倉時代初期の武将・御家人で、三浦義明の次男、三浦家当主、子は三浦義村。1180年、源頼朝が石橋山の合戦で挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で父・義明を討ち死にさせてしまう結果となったが、その後房総半島へ渡ってきた頼朝に味方し、平家方の畠山重忠を破って頼朝と共に鎌倉に入る。義澄は千葉常胤・上総広常・土肥実平らと共に頼朝の宿老となり、その後も、一ノ谷の合戦や壇ノ浦の合戦、奥州征伐に参戦して武功を挙げる。
1199年、頼朝が亡くなった後には2代将軍源頼家を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年、梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没。享年74

『和田義盛』(わだ よしもり、)
鎌倉幕府の御家人 三浦氏の一族であり、子は和田常盛、和田義直、朝比奈義秀。
鎌倉幕府侍所初代別当(長官)。三浦一族とともに1180年に挙兵した源頼朝に属し,同年の鎌倉幕府成立後に侍所別当に任ぜられた。その後,平氏追討,奥州藤原氏征伐にも従軍して活躍。九郎義経の首実検に梶原景時とともに立ち会った際には、そのむごたらしさに涙する人情家の一面もあった。 幕府成立後は幕政の中枢にあって北条時政・義時らとともに1199年の梶原景時の弾劾・追放,1203年の比企能員の乱の制圧などで主要な役割を担った。しかし次第に義時との対立が高じ,1213年に義時の執拗な挑発に乗って鎌倉府内で挙兵。当初は味方を約束していた三浦義村らが離反したため敗北,討死した(和田合戦)。
享年67、尚,木曾義仲の愛妾・巴御前を後妻に迎えていたとする説もある


『 京・公家出身の鎌倉事務官衆 (50音順) 』        

『一条 能保』(いちじょう よしやす)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての政治家で、妻は源頼朝の同母妹。
頼朝の縁者に当たったことから、左馬頭・右兵衛督・参議・左兵衛督・検非違使別当・権中納言・従二位と異例の栄進をする。能保自身は後白河天皇(法皇)に仕えて重用され、妻や娘は後鳥羽天皇の乳母となった。さらに頼朝から京都守護に任命されるなど、頼朝からの信任は厚い。頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。京都守護にあたっては謀反人九郎義経の探索に精を出した。頼朝にも、後白河法皇にも重用されたエリート官吏だった。

『大江 広元』(おおえ の ひろもと)
鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)。
源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房(おおえ の まさふさ)のひ孫で、広元には兄の中原親能がいた。親能は源頼朝と親しく、その縁から1184年に広元も召しだされて頼朝の家臣となり、政所の前身である公文所の別当として辣腕を振るった。1185年に頼朝が守護・地頭を設置したのも、全ては広元の献策によるものであると言われている。 むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたとも言われる。
頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与し、承久の乱のときも、政子に協調して幕府軍を勝利に導いた影の功労者のひとりとなった。広元の死後、大江氏は鎌倉幕府の幕政になおも参与したが、1247年の宝治合戦で三浦泰村に協力したために、一族のほとんどを誅殺されて衰退してしまう。しかし、このときに生き残った広元の子孫が、後の戦国大名となる安芸国や出雲国の毛利氏(わが町、厚木の毛利の庄の出身・広元の子・季光)や、三河国の海東氏や酒井氏、備後国の長井氏、越後国の北条氏(きたじょうし)、出羽国の寒河江氏などの祖につながることになるのである。

『三善 康信』(みよし やすのぶ) 
鎌倉幕府の初代問注所執事。 
元々は、公家で算道(平安時代の大学寮の四科の一。数を計算する法。算法。算術。)の家柄の出身。源頼朝の乳母の比企尼が母の姉であった関係で伊豆国に流された頼朝に、京都情勢や朝廷、平氏の動向を逐一報告した(京都定期便)。 後に頼朝に呼ばれ、大江広元と共に下向、幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、政務を担当した。初代問注所執事として裁判事務の責任者となった。頼朝死後、二代将軍源頼家の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加。1221年(承久3年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元の即時出兵論を支持した。同年、承久の乱後に没した。
 

文部省唱歌 『 鎌倉 』 作詞 芳賀 矢一

1  七里ヶ浜の いそ伝い      2  極楽寺坂   越え行けば
   稲村ヶ崎 名将の            長谷観音の  堂近く
   剣投ぜし 古戦場            露坐の大仏  おわします

3  由比の浜辺を 右に見て     4  上るや石の  きざはしの
   雪の下村   過ぎ行けば       左に高き    大銀杏
   八幡宮の   御社(おんやしろ)   問わば遠き  世々の跡

5  若宮堂の  舞の袖       6  鎌倉宮に   もうでては
   しずのおだまき くりかえし       尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに
   かえせし人を しのびつつ       悲憤の涙   わきぬべし

7  歴史は長き  七百年      8  建長円覚   古寺の
   興亡すべて  ゆめに似て       山門高き    松風に
   英雄墓は  こけ蒸しぬ        昔の音や    こもるらん



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立山、剣(天の記)(1971年)
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