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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(19)熊野 「熊野参詣」

熊野の自然と信仰・・、

大門上

大門坂

大門下
写真:重々連なる熊野の山々と熊野参詣道(資料)


熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を総称して「熊野三山」と呼ぶ。
「三山」の山というのは仏教用語であり、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の精神は今も尚生きている表れでもある。
このことはさておいて、熊野三山は水に関わる神々であるということは前回の本宮大社を含め何度も述べてきたが、熊野本宮大社は今でも熊野川を自然神としているし、そこに鎮座する「大斎原」が聖地であることに変わりはない。 又、熊野速玉大社は河口部、港にあり、神事には「御船祭」という船にまつわる祭事が1800年以上も続いているという。そして熊野那智大社は高さ133m、幅13mの「那智の滝」が信仰の根本であることは言うまでもない。 
川、滝、港という水に関わる三つの立地を総称した熊野三山は、水の在り方、水の形態の三つの側面を表しているといわれる。このように熊野三山は三方に分布しているが、これは何故だろう・・?、何か根拠が有るのではない・・?。

或る史家が推察するに・・、
三方は、きれいな二等辺三角形を構成しているのが判るという。 
これは仏教に於ける循環の構図を現していると仮定している。それを三角形の中心点からの方位で見ると熊野速玉のある方向は卯、熊野本宮のある方向は亥、それに熊野那智のある方向が未の方角に当るといわれる・・。これは常世の輪廻にあたるとされて卯(兎)の如くで生まれ、亥(猪)の様に盛んとなり、未(蛇)のようにソロソロとで死んでいくとも譬えられるという。
那智には、補陀落渡海で有名な補陀落山寺があり、最後は仏になって海で入滅するという思想、行動があったことは既に述べた。山は水の流れの源とし、罪の穢れを川の如く浄化するとともに、海の冥界へ旅たつ、この輪廻転生を現しているのではないかと。この世における自然界の輪廻、水に関わる生物の循環、人間本来の姿の生死観をこの三角形は示していると考えられると・・、いう思想である。

水に関わる熊野の地、紀伊半島は大台ケ原、大峰山系、高野山系を有し、日本一の多雨地帯であることは周知である。これらの水系は主に山系を流れ落ち、各種渓流、支流を合わして、熊野川や紀ノ川となり、大海の熊野灘、太平洋に注ぐ・・。水多きことは故に、紀伊地方は深山幽谷を形造り、所謂、「地の果て・・」でもある。 昔は、黄泉の国(よみのくに:ヤミ・闇か、ヤマ・山が転じたともいう。死後、魂が行くという所。死者が住むと信じられた国。冥土といわれ、死者が棲むといわれた異界の地)・熊野には「真の闇」があると信じられていた。

現在、我々が往来していて目視できる熊野の地域は、緑化運動などでスギの植林が奨励され、熊野のいたるところで伐採が行なわれてスギやヒノキの森に変貌してしまった地である。 これら鬱蒼と繁るスギやヒノキの森の直線的な暗さは、真の熊野の闇ではないという。 昔の人びとの心を捉えて離さなかった本当の「熊野の闇」は、ナラやカシやトチ、ブナ、クスノキ、梛木(なぎ)などの広葉樹林と照葉樹林の混交の森にあったのである。 又、熊野には近世にいたるまで海の漁労、山の狩猟・採集の生活など所謂、縄文様式が遺さ(のこさ)れてきた事実がある。 
南北にかけ離れた蝦夷や琉球ならいざ知らず、畿内(きない:帝都付近の地)といわれる本州の中央に位置し、弥生文化の中枢を担ったはずの近畿地方の一角に、なぜ縄文の息吹が遺されたのか。 それは熊野が京や大阪から、直線的には比較的近い距離でありながら、現実は、「闇」が支配する遠く離れた辺境の風土だったからなのであろう。

熊野は、古代の葬送の儀礼である風葬や水葬の習俗も遅くまで遺されたという。 川が死者の骨を洗い、カラスが風葬にされた死者たちの清掃者でもあった。 熊野本宮の象徴として、「八咫鴉」が祀られたのは理解できるのである。
農耕を中心とする弥生文化は太陽の恵みは欠かせない存在であり、彼らは天照大神(アマテラス)を絶対神として祀った。ところが、熊野は弥生文化の浸透は遅く、縄文の象徴である火の神・火之迦具土神(カグツチ)とその母イザナミが熊野に逃れて祭神となった地域である。そして「花の窟」(はなのいわや:三重県熊野市)に祀られているのである。
こんな自然、風土、信仰が個別に発生したとされる三つの大社は、過去と現在と未来を巡る浄土信仰と、熊野における縄文的自然に宿る神々によって渾然と融合し、広大な精神世界を醸し出してきたのである。

熊野では神仏同位、神仏習合の精神が最も早く起こったとされ、一般に「本地垂迹」と称して平安中期頃には「三所権現」の本地仏が命名されたという。
本宮社は、家津美御子大神(ケツミコ:スサノオ)で阿弥陀仏、新宮・速玉宮は熊野速玉大神(ハヤタマ:イザナギ)は薬師如来、那智宮は熊野夫須美大神(クマノフスミ:イザナミ)の千手観音を各々の本地仏としている。 本地仏とは、本地垂迹の思想に基づいて御神体に、その各位に相当する仏姿を当てたものである。

次回も「熊野参詣」に続きます・・、

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熊野紀行(20)熊野 「熊野参詣(2)」

日本独特の「神仏融合文化」・・、

引き続き「熊野参詣」についてであるが・・、
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは以前にも数度に亘り記してきたが、日本固来の神祇信仰(神々を祀る・・、※天津神と国津神などで、)と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象をいう。 日本では千年以上のもの間、複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出したとされる。
ただ、神を仏の鎮守として祀ったのは朝廷や権力者の、所謂、政治支配側の政策的なものでもあったともいわれる。

仏に対して神を低く位置づけるのは・・?、
一般民衆を含めた地域社会に僧侶が仏教を弘める方便として考えだしたものであり、仏教政策の作為的面が見られるのである。これらの永年に亘る政策を打破し、日本固有の神を主神として復活させるのは、遥か後年の明治時代に到ってからであるが。
熊野大社に今も見られる「権現」とは権(か)りに仏が化して神と現われるの意で、習合の理論となる本地垂迹説の先駆を示すものである。 中世(平安、鎌倉期)には祭神に本地の仏尊を設定することが一般化し、「本地垂迹」思想が徹底するところとなった。

その前に・・、天津神と国津神の神々について・・、  
奈良・律令期における神別けとして、「天神地祇(テンシンチギ)」というのがあった。 
天神つまり天津神は天上はるかの雲の上にあり、地祇つまり国津神は山の重なる地上の山中にあって、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしている。 
天津神は天孫降臨で高天原に縁のある神々で「アマテラス」や「ニニギ」(大和系)などであり、その中でも有力な神でありながら、その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう「スサノオ」や「オオクニヌシ」などの系譜に連なる神々が「国津神」(出雲系)ともされている。(これはある種・支配者の論理的作為ともいわれるが・・)

さて、「本地垂迹説」は仏・菩薩が人々を救うために様々な神の姿を借りて現われるという教えであり、日本における本地垂迹説は奈良期・聖武天皇(東大寺の創健者)の時代にまで遡るという。 当時の朝廷は、高度な外来文化としての「仏教」(6世紀中国より伝来)を重んじたので、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和(ゆうわ:ゆるして仲よくすること)しようとした。 実際、神仏習合の思想としての本地垂迹説が一般に広まるのは、平安時代も中期以降のことと考えられている。
神仏習合はさまざまな面で進んだが、平安時代の中期になると多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになった。そんな中、最も影響を受けたのが熊野三神であり、今に至っても「熊野三山」といい、「山」は仏教用語における「本山」を意味しているのである。
そして、熊野三山となった頃の平安中期には、強力な信仰の対象となり官、朝廷、天皇の厚き庇護を受け、参詣の対象になっていった。

「熊野信仰」は中世の朝廷、貴族の時代を経て武士、庶民へと広がりを見せ、熊野大神の前に額ずけば、その慈悲により俗世に傷ついた我が身も往生決定して生まれ変わり、幸せ多い人生が約束されると信じた。 仏教が習合し、更に熊野修検道が加わり、当時の末法思想とも合わさって、一つの浄土思想を形作っていったとされる。 この信仰は、『道の辺に飢え死ぬるもの数知れず・・』といった、中世の地獄を見た人々の心を激しく揺り動かし、熊野へと聖域めざし参詣心をかき立てたのであった。
人々は京より往復およそ1ヶ月、雲を分け昇り、露を凌いて熊野三千六百峰の山々をよじ登り、谷を下り、僻遠の地・熊野本宮を目指して参詣した。 この道は難行苦行の旅であるからこそ、一切の罪行が消滅するという信仰になり得たのであろう。 
藤原定家は『山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし』と記している。

熊野道は「蟻の熊野詣」とも称され、聖地を目指す人々の行列を「熊野三山詣」と喩えた。
熊野三山は万民を受け入れ、伊勢のように僧職を避けることもなく、高野のように女人を拒むこともしなかった。 所謂、天皇直々の参詣から、広く下位層の一般庶民まで信仰の自由が保障されていたのである。こんな多層の人々によって歩かれた熊野道は次第に拓かれていった。 今でこそ「熊野古道」といわれるが、平安期の頃には既に紀伊路と伊勢路の二つの大きなルートがあった。
その紀伊路は、京より淀川を下り和泉国をへて紀伊国に入り、大辺路、中辺路、小辺路の三つのルートに分かれる。これら三ルートのうち、中世にもっぱら利用されたのは中辺路であった。伊勢路は京より南下して大和国、さらに東に向かって伊勢国に入り、南下して東から入るルートである。又、いま一つに大峰道がある。大峰道は本宮と吉野を結ぶ険しい山岳ルートで、山伏の修行地とされた。 現在も大峰奥駆修行と呼ばれ、天台宗山伏(本宮より吉野へ=順峰)、真言宗山伏(吉野から本宮へ=逆峰)の修行の地となっている。
これらの辺路道、修行道は熊野の最奥部と言われる「熊野本宮大社」をほぼ中心に開けているのが判る。 最も歩かれた道としては紀伊路が海沿いを南下し、途中、田辺あたりで山道を本宮大社に向う「中辺路」といわれ、険しい山々を縫うように辿っていて、古くより参詣の道として定着していたという。

世界遺産と成った『紀伊山地と熊野参詣道』は、単なる遺産ではない・・!!。
熊野で語り伝えられてきた神話や伝説が、現在も暮らしの中に息づいている。
つまり過去と現在、生と死が連続している風土が、今も広がっているのである。 中世の昔より巡礼者が、この世界を歩くことによって浄化され救われると信じたものが、今なお存在し、実感できるのである。
これらの情景が色濃く残っているのが、例えば「中辺路」でもある。
次には、本宮大社から、その「中辺路」を歩くことにする。

次回は、熊野古道・「中辺路」  part11へ

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