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【紀伊山地の霊場と参詣道】
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熊野紀行(21)熊野古道 「中辺路」


写真:中辺路の「牛馬童子」と近露王子 


熊野参詣道の「王子」とは・・、

国道311号線を西に向って走る、熊野は確かに山また山の世界である。
暫く行ったところに、その名も「熊野古道・中辺路」という道の駅があった。 
道の駅舎には色々な古道歩きのグッズ類が置いたあるが、小生は古道の案内地図を戴いて出発である。
国道を挟んだ古道入り口には、賑やかに案内板が立つ。杉木立が奇麗に立ち並ぶ間の道は良く整備されていて、坂道には木製の階段が施してあり歩きやすい。 暫く山歩き気分でジックリ歩を進める。午前中は好天であったが山中で変わりやすく、曇りから今は小雨模様になってきた。
ところで、中辺路の西部域には国道に沿って冨田川が流れる。この川沿いを北上してきた古道は滝尻地区の「滝尻王子」から奥は御山、熊野の霊域だと考えられ、これら前後の険しい山々を越えてきて逢坂峠の「大坂本王子」までは急峻な山道となる。 これらを越えた現在地が国道311号線と接するところである。

上りきった所に平坦な広場があって墨に石造が祀ってある、「牛馬童子」といって50〜60cmの極小さなものであるが、よく見ると一人の童子が一頭の牛と馬に跨っている姿であり、服装は庶民のと異なって高級感がある。 きっと、やんごとなき宮家の童子がこの地で何かの不幸があったとも想像されるが・・、すぐ右に同じく石の童子の姿像が安置されている。
そこから緩い登り坂となり「箸折峠」に着く。 峠からは見通しも良く近露の里も眺望出来、旅人の絶好の休憩所となっている。宮の参詣者・花山法皇もここで休憩した思われ、この時、「昼食の弁当を開いたが箸がついてなかったので、ススキの軸を折って箸にした」、このことから箸折の峠名が付けられたという。 この時、ススキの軸の赤い部分に露がつたうのを見て、「これは血か露か」と尋ねられたので、この地が「近露」(ちかつゆ)という地名になったとも云われる。 

法皇の法衣と経を埋め建てられたという「宝篋印塔」もあり、これは鎌倉時代のものと推定されて県指定の文化財である。石仏の牛馬童子は花山法皇の旅姿だとも言われるが・・?。
ここ箸折峠に至って間もなく「近露王子」に至る。 杉の植え込まれた段々のやや急な坂道を一気に降りて、集落の一端に辿り着いた。この地は熊野本宮に至る中で、最も大きな集落であり、参詣の人々が出会う人里で、昔、「道中」とよばれていた区間である。 従って、今なお多くの旅籠跡が残っており、往時の熊野詣での賑わいを忍ばせてくれる。
日置川を渡った旧道沿いに、その「近露王子」があった。入り口に「史跡・近露王子」と名柱があり、苔むした石段の奥はコンモリした森を造っているが社宮らしいのは無かった、代わって古石の碑が置かれてあった。 近露は、熊野道を巡る各王子の中でも最も早く設けられた里宮で、前後に険しい山岳地をひかえる中にあってこの地は拓けた里に在り、旅人は心安らぐ一点の地だった。そんな中、近露王子は近露の里の真ン中に鎮座して、かつては産土神(うぶすながみ・生れた土地の守り神、氏神・鎮守)としても祀られていた。 

平安時代からの熊野詣の記録にもしばしば登場していて、宮人により「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、すぐ下を流れる日置川で神にお参りするために身を清めたという。 近露王子は参詣に備えて身を清浄にする霊場となっていて、川の近くの御所では後鳥羽院が歌会を催したことなど・・、歌人・藤原定家の参詣記などにも記されている。 近露は田辺と本宮の中程に位置し、辺りが盆地となっていたので食糧にも比較的恵まれたことから、熊野詣での宿所としても賜わったといわれる。

熊野道中でよく「王子」と言われる宮社が存在し、九十九王子といわれるが・・?。
九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、熊野古道沿いに在する社宮のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護・安全を祈願された社をいう・・。

「王子」とは若王子を意味し、熊野三山の御子神と言われるが本来は沿道住人が祀る雑多な在地の神々・産土神であった。これら諸社を王子と認定したのは、中世熊野詣において先達をつとめた熊野の修験者によるものであり、修験者は院政期以降の皇族・貴人たちの参詣の先達をつとめた人々でもあった。 そこには、参詣途上、身の安全を祈願する目的の他、儀礼・儀式を行う場所でもあり、歌会などを行う催場でもあったという。 又、併せて参詣者の庇護、物品の補給を行ったとされる。
今日(こんにち)で端的に言えば、一般道の「道の駅」、高速道で言えば「サービスエリア」みたいのものであろうか・・??。

九十九王子の「九十九」とは古来数の多さに喩えられるが、王子は実際に90を越す数に上り、その分布は参詣路で最も華やかで賑わったとされる紀伊路・中辺路の沿道に限られているのも特徴である。王子社の中でも位の高いのが五体王子と呼ばれるもので、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子の五社とするのが一般的である。 これらは、熊野の主神の御子神ないし属神として三山に祀られる五所王子と呼ばれる神々であり、三山から勧請したものと考えられている。
各王子社は、現在でもその痕跡は見られ、特に中辺路は熊野古道のハイライトともいえるほど格式の高い王子や旧跡が数多く残されているという。

近露王子かすぐ近く、この土地で南北朝時代から連綿と続き現在29代目の野長瀬家(のながせけ)がある、そして土豪「野長瀬一族の墓所」の一群がある。
この地に隠匿していた護良親王(もりながしんのう:後醍醐天皇の皇子、鎌倉幕府滅亡の主唱者の一人)を五代に亘って庇護した土着の豪族で、「太平記」にも登場している。 外れには一族を祀る観音寺があり、県文化財に指定されている。
護良親王のこと・・、
鎌倉末期、京では後醍醐天皇が中心となって鎌倉倒幕の機運が上る。しかし当初は失敗して流刑の処分にあい隠岐に流されてる。この頃、後醍醐天皇の第一皇子は叡山にこもって修練し、天台座主となり「大塔宮」と称して武力をもとにした寺院勢力を味方につけ、そして間もなく還俗して「護良親王」となった。
楠木正成らの反幕勢力と合流して蜂起し、吉野、高野山、熊野などを転々としながら2年にわたり幕府軍と戦い続ける。 今でもこの地方には親王の痕跡が残っているし、紀州の「大塔村」や「大塔山」は親王の名を記念して付けたものと思われる・・。

車をソロリと進ませる・・、
地元の生活道でもあるこの辺りの地は、国道311の旧道でもあり、一部は古道とも重なっていて、今も当時の面影や史跡が多く残っているところである。
2kmほど進んだ車道わきの山の斜面、杉の根元に「比曾原王子」の碑がひっそりと立つ。 ヒソ原、比曾原という地名で鎌倉末期頃までは諸書に登場する名所であったらしい、現在地名が比曾原であるかどうかは不明である。 この辺りは山腹を縫うように旧道が屈曲しながら延びている、遥か下方の新道R311が車の快走往来を見せている。


次回も「中辺路」です・・、

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熊野紀行(22)熊野古道 「中辺路」(2)

熊野参詣に、奥州の覇者・藤原秀衡の痕跡・・、



写真:継桜王子と野中の一方杉, 野中の清水、野中の「とがの木茶屋」


「継桜王子」に来た・・、
野中地区の氏神でもある王子社で社殿もあり、古木杉の囲まれた石段の上の境内に建つ。 この境内斜面には「一方杉」といわれる巨木が現存する。 杉の樹齢は800年前後の巨木で、特徴的なのが南向きだけに枝を伸ばしている、ことから「野中の一方杉」と呼ばれており、県の天然記念物に指定。 確かに10本近くあるうち、皆同じように南方にある熊野大社を慕うように枝を伸ばしているともいう。 このため一方杉と呼ばれているわけで、この不思議な現象は、生物の生態を知る上でも貴重なものと言われている。

道の下位、斜面下に石垣でしっかり囲まれた石造りの池に清涼な清水が結構な勢いで湧き出し、溜められている。 「野中の清水」といわれるもので、周りは朱色の欄干の手摺が施してあり、丁寧に管理、保管されているのが判る。小生も早速、ペットボトルに頂いて・・、手すくいで二口、三口流し込んだ。まろやかで清涼感たっぷりの水が喉越しに落ちてゆくのが判る。 思わず美味いと・・叫ぶ程である・・!!。
清水は野中・坂巻山の湧水で、付近住民の飲料水、生活用水として利用されており、地元住民が清掃などで清水の維持と環境整備を行っているという。日置川の源流の一つでもあり、古来より涸れることなく水が湧出していて、熊野詣の古道「中辺路」の途中で旅人がこの湧水に癒され、この縁を歌枕に詠んだ数々の歌や句を残している。 古記にも「野中の清水と云う名水有り」と記されていて、日本名水百選のひとつにも選ばれている。

『 住みかねて 道まで出るか 山清水 』  服部嵐雪(1705年) 

水場より継桜王子まで戻って先へ行く。 
すぐ其処に茅葺屋根の一軒家がある、「とがの木茶屋」といって日本の農家の家といった感じであるが、どっこい今では郷愁を誘う雰囲気たっぷりの休憩舎であり、旅籠(はたご:民宿)でもあるとか。 中には懐かしい囲炉裏なども有って、この囲炉裏を囲んで宿の女将が古道にまつわる「民話」なども語ってくれるらしい。

「秀衡桜」(ひでひらざくら)は、継桜王子社から約100m東の道端にある、今は三代目としての石碑が建つらしいが・・、 
『 平安時代後期、奥州の豪族・藤原秀衡夫妻が本宮をお参りするために途中の滝尻(滝尻王子:乳岩や胎内くぐりといわれる秀衡の説話)まで出来たとき、急に産気ずき男の子を出産した。岩屋に残したわが子の無事を祈願しながら野中の地へきたとき、杖代りにしていた桜の木をこの地に植えた。その後本宮を参拝した帰り道再びこの地を訪れたとき挿した桜の木に綺麗な花をつけていた。「これでわが子は無事であろう」と喜び、一枝切って別の木にその桜を継いだ。そして、急いで滝尻まで戻ると確かに息子は元気で無事であったという・・。この子はやがて平泉で成長して藤原忠衡となり、奥州落ちしてきた源義経を助けたという 』・・以上、秀衡桜と継桜王子に因む伝承がある。 

東北・陸奥から紀伊までは遠かったであろうが紀州・熊野には藤原秀衡にかかわる伝承がいろいろと残っているという。 ただ、史実は陸奥国に新熊野社を勧請したとする古記もあるらしく、秀衡が熊野を信仰してことは確かだと見られるが、熊野に参詣したという史実は確認されていないともいう。

継桜王子を過ぎると古道は旧国道と合流し、旧国道を行くことになる。 
しばらく進むと「中ノ河王子」跡があった。 今は、文字が刻まれた石碑があるのみで寂しげであるが、後鳥羽院や修明門院(平安末期:高倉重子・順徳天皇の母)の参詣録にも記されている由緒あるものだったらしい。

ここからは暫く森の中の旧道を行く。
「中ノ河王子」から、旧国道を本宮に向かって約2kmで小広峠に着いた。道端の草生した石垣の石段を数段登った奥の草むらに、上方の欠けた「小広王子跡」の石碑が立っていた。 村の古記録の説明によれば、元々、小広王子権現は村はずれの小広峠付近にあったが「宮居」が古く維持困難になったため1573年、神意を伺って遷宮と決まり、「継桜王子社」へ移したという。 その後江戸中期、紀州藩が再建したが、明治の道路建設で再び破損したとある。
歴史は栄枯盛衰が繰り返され、特に歴史的事実や遺構はやがては消え去って行くものであるが、それらが自然な状態なら良しとするが、人為的に、無造作に、無分別に消されてゆくのは悲しいことで、あってはならないことである・・!。

小広王子からは、旧車道と分かれて再び険しい山道の参詣道になるが・・・。


ところで、再び世界遺産について・・、


冒頭にも記したが平成16年7月に世界遺産として「紀伊山地の霊場と参詣道」と題して認定された。紀伊山地には修験道の「吉野」、神仏習合の「熊野」、密教の「高野山」と、三つの異なる宗教の山岳霊場があるが、それら三大霊場とそれらを結ぶ参詣道を「熊野参詣道」、「高野山町石道」、「大峯奥駈道」などによって世界遺産は構成されている。

この世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の特徴として、まず「道」であることが挙げらる。 
「道」の世界遺産は、他にはスペインからフランスを繋ぐ「サンチアゴへの道」があるのみである。
和歌山・奈良・三重の3県29市町村にまたがり、コアゾーン(世界遺産の資産となる区域)とその周辺のバッファゾーン(緩衝地帯。資産周辺の環境や景観を保護するために、土地の利用に規制がかかる資産周辺の区域)を合わせた面積は約12000haで文化遺産としては日本最大である。 
また、文化遺産でありながら滝や原始林や川や海岸、岩、温泉など自然景観を資産として多く含む点も特徴の一つである。これは、文化遺産の中での自然遺産でもあり、所謂、複合遺産としての性格や価値が十分に有るとも思うが・・??。

因みに、世界遺産には文化遺産・自然遺産・複合遺産の三種類があり、「紀伊山地の霊場と参詣道」は文化遺産である。 日本の12件の世界遺産のうち10件が文化遺産であり、屋久島と白神山地の2件のみが自然遺産、だが文化と自然の両方を兼ね備える複合遺産は日本にはまだない。

紀伊山地の三つの霊場・吉野・熊野・高野山は山岳宗教の霊場であり、それぞれ、紀伊山地の自然のなかで育まれたものであって、紀伊山地の自然なしには山岳霊場たりえない。 又、三つの霊場がそれぞれ異なる宗教の霊場であるという点も特徴的でもあろう。これらの霊場が熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。
紀伊半島は、日本でも有数の降雨量の多い地域である。このため、所々に石畳で舗装された道跡が残っている。 また江戸時代、紀州藩により整備された一里塚などが残っている個所もあるという。しかし、熊野古道の中には、国道や市街地に吸収されてしまったものもある。 例えば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されており、紀伊路(大阪−田辺)が登録外であるのも同様の事情によるらしい。 又、登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線に吸収されている。

紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われているため、古来より交通開発が困難であり、交通路が敷かれうる場所も限られていた。 そのため、小辺路や大峯奥駈道のような例外はあるものの、古人の拓いた道と現在の主要な交通路が並行(中辺路と国道311号線、JR紀勢本線や国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路)していることや、重複(前述)していることが少なくないのである。

「熊野詣」それ自体の盛衰もあり、又、歴史的な変遷から生じた派生ルートなどもあって現在では正確なルートが不明になっている区間も多数在るという。 世界遺産に登録された熊野古道は、これら全てではないことに留意する必要もある。 そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもあるようだが、更に、車道に併合されて消された部分や不明な部分は、世界遺産に登録されたのを機に再復活の試みとして、新しく「古道」(・・?復古古道)を造成することも考えられるが・・??。
最近、「ご当地ソングの女王」と言われる「水森かおり」が、「熊野古道」という歌を唄っている。 歌の内容はともかく、これを機に地元の有志達が何処かに記念碑を建てて熊野を更にP・Rし客寄せを計っているという。尤もなようだが、もっと前向きで建設的な方法を創造(新たに創り出す)、模索しては如何だろうか・・?。

この先、中辺路は「小広王子」から「湯の峰王子」までの凡そ20km、険しい山道を辿ることになるが、我等は新道の国道311号へ戻って今夜の泊まり宿である「湯の峰温泉」へ一路目指した。

次回は、本宮湯宿・「湯の峰温泉」  part12へ

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