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【紀伊山地の霊場と参詣道】
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熊野紀行(23)本宮 「湯の峰温泉」

熊野参詣道の名湯・「湯の峰温泉」・・、

湯峰温泉


坪湯
写真:湯の峰温泉と坪湯  


国道311号線で再び本宮方面を目指した。 
山間地の谷間のような地域を四村川と並行して走っているが、熊野川に近づくに従って山岳が異様に入り組んでいて、そのため河川も道路も複雑に曲折していて判りにくい。 四村川も大きく蛇行しながら請川あたりで本流の熊野川に合流しているようである。 R311も旧道、新道、その他の道路が複雑に絡み合って湯の峰方面はカーナビでも判りにくい。 
それでも案内にしたがってどうやら「湯の峰温泉」に辿り着いたようで、急峻な山間地、四村川の支流である湯の峰川・・?に沿って温泉場はあった。

熊野詣の信仰の歴史は古い、その古さと相まって熊野本宮詣の湯垢離場(ゆこりば:神仏に祈願するため、温泉を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)として身を清めたのが、ここ日本最古の温泉・湯の峰であるという。 その歴史は、なんと1800年前にまで遡るという。 
ある温泉愛好家に言わせると、温泉好きでここに来なければモグリだとも言っている。 湯の峰は小さな温泉地で木造の旅館が数件、身を寄せあっている程度の温泉場で全国的には余り知られてはいないかもしれない。

我等、本日の宿舎は谷川の少々上流部の辺にあった・・、
「よしのや」という民宿であるが建物も部屋もピカピカと新しく気持ちがいい。 尤も、新築・リニューアルが3年前と言うからそのはずであるが・・、おまけに宿の美人女将が、心憎いほどの応対振りで何とも心安らぐ。
玄関で応対してる時、芳紀女性が二人入って来た。 
聞くところ、あの小広王子から熊瀬川王子、岩神王子、湯川王子、発心門王子、猪鼻王子、水呑王子、伏拝王子、祓戸王子そして本宮大社と・・、何と山坂9時間ごしで越え、八カ所の王子社を巡ってきたという。 小広王子といえば我らが最後に訪れた王子で、この先は急峻な山岳地のはずである、通しで20km以上はあるだろうか・・?、難路の長距離を疲れきった様子も無く健気に談笑する彼女達が眩しく見えた。
宿所といえば、「よしのや」は前日、前々日宿泊したホテル浦島とは全てが好対照の感がある、否、只一つ共通するものがあった「温泉」であるが・・、宿には無論内風呂があるが、玄関前に離れの露天風呂があった。露天は普通の住居地域で塀に囲まれてはいるが樹木が繁る中、野趣満点に創作、造作された露天は最高であった。 上さんと貸切混浴しながら湯趣・湯味をたっぷり楽しんだ。 
後に帰宅後、記念写真を見たら上さんの色っぽいヌードが写っていた、これは余計か・・!。

湯上りの食事前に浴衣姿で小さな湯の町を散歩した・・、 
街の中ほど湯の峰川の河原に「湯筒」という施設がある、コンリートで良く整備された河原に四角い湯の桶と隅には湯筒地蔵が祀られていた。 対岸には源泉自噴湧出の大きな槽があって、モウモウと白煙が噴出している。湯筒の温度は92度と高温の温泉が湧いていて、この槽で食料品を蒸かしているようで、来客人もそうであるが地元の人の共同炊事場としても利用されているようである。 近くの店で玉子を買ってきて漬けてみた。
下駄の音も高らかに川岸をぶらつく、下の方に共同浴場もあった。 何とも風流で、実に雰囲気が良い。河原にある湯の峰名物の「坪湯」を覗いてみた。 定員2名の小さな小さな湯小屋であり、湯船である。 坪湯の場所は、我が宿舎・「よしのや」のほぼ真下の河原にあって、がっちりした石橋の向こうに東屋が待機所としてあり、湯屋がこれまた風流に造られている。人の気配が無いようなので定額を銭箱に入れて、ここでも一っ風呂浴びた。石組みとコンクリで呈よく造られているが、浴槽の横に「シャンプー、石鹸の使用はご遠慮下さい」とあった、納得である。

出来合いの温泉タマゴを持ち帰りながら食事と一緒に食したが、その湯宿の食卓も中々であった。 一杯機嫌で出来上がった後、再び露天風呂に浸かり、夢路を辿った。
ああ・・極楽極楽・・!!。

次回は、 湯の峰・「湯治伝説」

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熊野紀行(24)湯の峰温泉 「湯治伝説」

熊野参詣、小栗判官に関する伝説は・・、

熊野の地は弱者に温かい浄土の地といわれ、復活、そして再生の地とも云われることは先に記した。 湯の峰温泉には実際にそれらの伝説も有り、その一つの例として「小栗判官・蘇生の湯」というのが伝えらている。

その昔、常陸の国( 現在の茨城県真壁郡協和町)に城を構えていた「小栗氏」という一族が居た。今から凡そ600年前(室町前期)の戦乱の時代であった。
関東で上杉禅秀(ぜんしゅう:上杉 氏憲・うえすぎ うじのり、出家して禅秀:室町時代前期の関東管領)が乱を起こした際、小栗氏はその上杉方に味方したが、結果は足利持氏に敗れてしまう。 
城主・小栗判官満重とその子助重は、小栗一族の住む三河の国を目指して逃れようとして相模の国に潜伏していたが、その時、権現堂にて、ある盗賊に毒を盛られて難渋する。 しかし、居合わせた「照手」という遊女に救われ、馬に乗って藤沢まで逃れ「遊行上人」に助けられる。 だが、その後も病は良くならず、遊行上人の導きと照手をはじめ多くの人々の情けを受けて熊野に詣でることになる。 相模の国を出て444日の苦難の旅を経て熊野本宮大社に詣でることができ、約3km離れた湯の峰温泉に逗留、湯治の結果、見事に蘇生したという。 七日で両目が開き、14日で耳が聞こえ、21日で話せるようになり、49日で回復したという。 
熊野権現の加護と湯の峰の薬湯の効き目により全快したと語り継がれている。
遊行上人とは、時宗の祖師である「一遍上人」のことで、相模の国(神奈川)の藤沢に時宗の総本山である「遊行寺」を建てた。その一遍上人も、この地・熊野に詣でていると古書に記されている。

「小栗判官」の「判官」(はんがん・ほうがん:検非違使尉・けびいしのじょう)とは・・、
平安期における中央官の役職名で、犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務や訴訟・裁判をも扱う強大な権力を持っていた。 源義経の通称でもあり、裁判官の元になったものである・・。
小栗満重は桓武天皇の曽孫・高望王の末裔ともわれ、常陸国真壁郡小栗邑(現茨城県真壁郡協和町)の領主であったが、15世紀初期の頃、関東管領・足利持氏との戦に敗れ、後に城主・満重は鎌倉・八幡宮で自殺したとされる。これが、小栗判官満重に関する歴史的事実らしいが。 
満重は特に歴史の流れの上で 大きな役割を果たしたわけではないが、しかし小栗判官満重の名は照手姫とともに、浄瑠璃、歌舞伎、人形芝居などで庶民に親しまれている。最近では、市川猿之助演じるスーパーカブキ・「オグリ」(小栗判官と照手姫の物語)でも有名である。 

満重は歴史上の人物でもあるが、伝説上の人物ということにもなるなのだろう・・?。
小栗判官に関する伝説は、一遍上人の説く「時宗」の布教との関係もあるらしく、後に遊行寺に詣でた満重は、上人にお礼するとともに亡くなった家来達の菩提を弔っている。 又、美濃の地で下女として働いていた照手姫を救い出し二人は夫婦になるが、満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に来た折には遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てたという。 又、照手姫も仏門に入り遊行寺内に草庵を営みながら、永享元年(1429)には「長生院」を建てたといわれる。 
これらは遊行寺・長生院に伝わる伝説でもあるが、小生の住む相模の地には藤沢を始め周辺各地には小栗判官に関する各種伝説が伝わっている。

熊野の地は古くから死霊の集まるところであり、また死者再生の聖域でもあった。男女の別、貴賎、淨・不浄を問わず何人とであっても受け入れ、熊野の参詣者の中には、病人や乞食などの姿も多くみられたという。 彼らは熊野に詣でれば病苦から逃れられ、たとえ途中で行き倒れても来世で救われると信じ、また道行く人々と助け合うことが死んだ者への供養になると信じて長旅の苦しみを分かちあった。
実際に、昭和の代になっても差別と偏見で見られた「ハンセン病」(癩病・らいびょう:感染力の弱いらい菌による皮膚伝染病。昭和期まで誤解による偏見や差別で強制隔離や事件が発生している。)であるが、湯の峰温泉では大正時代までハンセン病をも受け入れた宿もあったといわれる。 熊野では、昔から偏見や誤解はなかったのである。 
小栗判官の伝説は、こうした熊野の霊地が基盤になって語り継がれてきた、云わば「死と病の再生復活の物語」の中の一説なのであろう。

日本最古といわれる湯の峰温泉、その開湯は古く奈良期以前の古墳時代とも言われる。平安期の熊野御幸の時代には、皇族や貴人が参詣の傍ら、この地を休養として訪れている。 室町時代には、一般参詣人達は旅の疲れを癒す意味もあるが、参拝前に入浴し身を清めてから本宮参詣に出立したともいう。この時期に、時宗開布のため全国を行脚していた一遍上人も熊野の地を訪れ、この地で修行に励んだといわれる。
江戸時代に作成された温泉番付では、「本宮の湯」として勧進元(興行主、事を発起してその世話をすること)に名を連ねている。
小栗判官も入湯したと言われる世界遺産にも登録された「坪湯」は、温泉街を流れる小川の河床にあり、岩盤が自然に抉(えぐ)られてできたという。二人がやっと入れるぐらいの小さな温泉場であるが、川下にある川湯温泉が川を堰き止めて作られる巨大な露天風呂「千人風呂」との対比が面白い。
1957年(昭和32年)熊野本宮温泉郷の一部として川湯温泉、渡瀬温泉とともに国民保養温泉地に指定され、共に毎年10月に「献湯祭」を開き、熊野本宮大社に献湯しているという。
2004年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録されたため、世界遺産の温泉になった。

次回も湯の峰温泉の「東光寺」  part13へ

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