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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(27)熊野古道 「滝尻王子」

熊野参詣道は、「滝尻王子」から熊野三山の神域に入る・・、

滝尻王子
乳岩
写真:滝尻王子と乳岩


朝の冷気を吸いながら、ユックリ散策した後、宿へもどった。
ところで、今日で南紀旅行の最後の日となった。本日の予定コースとしては、中辺路から田辺に抜けて御坊、和歌山から関西空港を経て、帰路を辿ることになる。
昨日往来した国道311号線を再び西下する。 
小広のトンネルを抜けると「小広王子」で、ここからは古道、旧国道、新道が概ね並行している。 昨日見物した熊野古道の「中辺路」のハイライトともいえる格式の高い王子や旧跡が数多く残されていた地域であった。熊野古道は、「道の駅・中辺路」付近の逢坂峠(国道はトンネル)で国道と交差し、再び北側の山中の地へ分け入る。 国道は、冨田川の川沿いを走り栗栖川、中辺路の山あいの町から滝尻へ至る。 ここで再び古道と国道が接近し、ここに「滝尻王子社」が鎮座している。
滝尻王子は、周囲がやや開けた国道の富田川と、東から流れ込む石船川が合流する所にかかる滝尻橋の袂にある。 立派な鳥居と参道奥の森の中に、社宮が鎮座していた。 又、小橋の向こうに八角とんがり屋根の「熊野古道館」があった。 古道館は、熊野古道を中心とした中辺路の観光案内や歴史紹介を兼ねた休憩施設がある。

滝尻王子の社宮は五体王子の一つとして尊ばれ、鎌倉・室町期の笠塔婆や宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔・墓碑塔)があり、また奥州平泉の藤原秀衡奉納と伝えられる黒漆小太刀(国重文)を蔵しているという。
本宮参りで平安貴族・藤原宗忠が、「はじめて御山(熊野権現)の内に入る」と記していて、滝尻王子に始まるこのコースからいよいよ熊野三山の神域に入るといわれる。又、富田川で禊(みそぎ)を終えると、この滝尻王子に参拝して、神道、仏教の宗教儀式の後、神楽や相撲、歌会などの奉納も行われたといい、特に、後鳥羽院が主催した歌会の折に、藤原定家など当時を代表する歌人が和歌を詠んだという記録も残っているという。 

滝尻王子社の左脇から、山中へ向かう熊野古道の階段が伸びている。 サンダル履きの上さん(妻)であったが、何とか無理して「乳岩」まで登ることにした。 急斜面であるが、道はシッカリしていて歩きやすい、凡そ20分ほどの登りで古道に沿って横たわる巨岩があった。それは人一人がやっと通れる程の穴があいていて、これは「胎内くぐり」ともよばれている。 又、胎内くぐりの大岩の上方に、奥州平泉の豪族・藤原秀衡にかかわる伝説の乳岩があった。 
昨日の「継桜王子」の項でも記したが、藤原秀衡夫妻が熊野詣での途中、夫人がここで産気づいて男を出産し、この岩穴に残して参詣をすまして戻ってきてみれば男子は、オオカミに守られて、岩から滴る乳を飲んで成長していたと伝えられている。 
それにしても、赤子を置き去りにしたり、オオカミに育てられたり・・と現実離れした伝承であるが、これら裏側にある事実の説話は何なのか興味深いところでもある。

次回は、 「安珍・清姫物語」

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熊野紀行(28)真砂 「安珍・清姫伝説」

安珍・清姫伝説は、「神仏融合」の実情を現したもの・・?、

国道311が富田川沿いに少し下ったところに、「清姫」の故郷と言われる「真砂」といわれる地に来た。茅葺屋根の小店が立ち、山菜や川魚などの山の幸を使った料理が楽しめる休憩スポットのようだ。この先に、清姫の墓や園地があって富田川の「澱んだ淵」が見渡せる。
この辺りは「真砂の里」といって清姫の故郷といわれる。 

「安珍清姫の物語」は、能や歌舞伎の「娘道成寺」などで有名である。 芝居では、裏切られた清姫は安珍を道成寺まで追いかけて焼き殺すということになっているが、この真砂の里に伝わる伝説では、哀しみの余り世を儚んでこの地の富田川に身を投げたということになっているらしい。 

『 昔々、熊野権現にお参りに来た男前の旅の僧「安珍」が、紀伊の国の真砂の庄の一家に一泊させてもらうことになった。 その家の娘・清姫が安珍に恋をし、夜半に寝床までいって迫った。驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野参詣の帰り道もう一度ここに寄るので、それまで待っていてほしい」とその場を逃れた。参詣を終えた数日後、破戒を恐れた安珍は清姫のもとを素通りして逃げてしまった。それを知った清姫は後を追いかけ、やっと安珍に追いついて「主は、安珍か・・?」、安珍の嘘の返事で人違いと言われ、気が付いた清姫は激怒する。安珍は「南無金剛童子、助け給え」と祈る。祈りで目がくらんだ清姫は、安珍を見失い更に逆上。追いつ追われつ、日高川に到った安珍は船で渡るが、話を聞いた船頭は清姫を渡そうとしない。清姫遂に一念の蛇体となって川を渡り、更に、追い続ける。道成寺に逃げ込んだ安珍を寺僧が匿い、鐘の中に身を隠した。間もなく清姫もやって来てたが、その姿は完全に大蛇と化していた。安珍の隠れた鐘を見つけた清姫は、その鐘に巻きつき炎を吐いて鐘もろとも焼き払ってしまったという。その後、清姫は蛇体のまま入水してはてたという。安珍が焼死、清姫が入水自殺した後、住職は二人が蛇道に転生した夢を見た。そして法華経供養を営むと、二人が天人の姿で現れ、熊野の宮と観音菩薩の化身だった事を明かす 』

そも女人というものは、高貴な人も賤しき人も、妬み心を持たない人はいないといい。 経典の中にも「女人地獄使、 外面似菩薩、内心如夜叉」と説かれていて、その意味は「女は地獄の使いである、成仏の妨げとなる、表面は菩薩のようだが、心の内は鬼のようだ」という。 「女が蛇身となって男を焼き殺す」、この所業は立ち返ってみると、悪世乱世の人に思い知らせるための、権現と観音の深い志を持った方便ともいう。
尤も、二人が、熊野の宮(安珍)と観音菩薩(清姫)であったとすると、平安初期以降にみられた神仏融合、本地垂迹の思想、実践、つまり、神に仏が宿り、その内仏が神を呑み込んでしまった実情も透けて見えてくるのである。
真砂の里、冨田川の淵は清姫が水垢離(みずこり:神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をとり入水したという「清姫渕」、その時衣を掛けた「衣掛松」、安珍の帰りを待った「のぞき橋」、水鏡にした「鏡岩」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」などの伝説がのこっている。 

次に、その「道成寺」を訪ねてみよう・・、

沿岸地の田辺市に出た。
和歌山県中部の中心地であり、熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、「口熊野」(くちくまの)とも称される。 現在の田辺市(新制)は、2005年5月1日に、田辺市(旧制)、龍神村、中辺路町、大塔村、本宮町の新設合併によって発足した、中辺路町から本宮町まで広大な地域になって、面積的には和歌山県全域の約22%を有し、県内でも圧倒的最大の面積になったという。 尚、全国都市の面積順位では11位になっている。

尚、田辺については、「日本周遊紀行・西日本編」にて詳しく記載しています。
田辺市:  http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-311.html

国道311から、海道の国道42へ合流し、南部(みなべ)から阪和道にでて「御坊」へ向う。 

次に、御坊・「道成寺」   part15へ

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