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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(29)御坊 「道成寺」

安珍・清姫物語の他、「道成寺」創建縁起・・、

道成寺
清姫
写真:道成寺本堂と縁起堂の絵画(釣鐘に身を潜めた安珍に気が付いた清姫が、大蛇に変身して鐘もろとも焼き殺す)


阪和道の御坊I・Cで降りて、安珍清姫も渡ったとされる「日高川」を渡り、案内にしたがって道成寺へ向った。 JR紀勢本線(きのくに線)「道成寺」駅からでも、道成寺石段下まで徒歩5〜6分のところであろう。
突き当たりの道路を北の方向(右折)に進むと正面に道成寺の石段と仁王門の一部が見える。 正面に道成寺の石柱標識があり、ここから参道になっている。参道を更に北の方向に進むと、数軒の土産物屋や食堂があり、この前を通ると結構急な石段の参道がある。

この石段を上がったところに、朱色模様も鮮やかな仁王門が建っている。 その正面には堂々とした本堂が建つ。 本堂は、南側と北側の両面に正面がある珍しい構造で、「両正面裏無し堂」といわれ、南正面は通常の正面で、北正面は奈良に向かうように建てられているという。 本尊は千手観音像が二体在って、南面の本尊は重要文化財として大宝殿(宝物殿)に移されたが、北面に安置されている観音像は北向観音とも呼ばれ、33年毎に開扉される秘仏として安置されているという。

本堂右手に「安珍塚」と書かれた石碑と、塚のしるしとされている「榁(むろ)の木」が植えられた一角がある。 その東側に「三重塔」が荘厳に天を指している・・、塔は県文化財に指定されている。 「本堂」前の広場の西側に朱色の「大宝殿」が建てられている。その南側に密接して「縁起堂」があり、ここでは一日に数回「道成寺縁起」の写本を用いての「安珍清姫の絵とき説法」が行われているという。 
縁起堂の中には数人の参拝者がいて、たまたま、その説法がこれから開始されるところであり、我らも急きょ参加して聞き入った。 住職による流暢なお話に、皆はすっかり聞き入ってしまったようだ。
安珍清姫の物語は先に記したが、道成寺をめぐる伝説はその他に二つ有るという。
二つ目は、鐘の再興供養の場に白拍子があらわれ、鐘に対する怨みを述べて蛇体となるものの、僧の供養で成仏する「鐘供養」物語で、これは安珍清姫物語の続編とも言えるものでもある。
もう一つは「黒髪縁起」・髪長姫(かみながひめ)の物語で、これは道成寺の創建に関する物語でもあった。

『髪長姫の物語』

『 今から1300年前、九海士(くあま:現在の和歌山県御坊市湯川町下富安)の里に住む海女の夫婦は子宝に恵まれないことから、氏神の八幡宮にお祈りしたところ、可愛い女の子が生まれました。名前を「宮子」と名付けたが、大きくなっても髪の毛が全く生えませんでした。 悲しむ両親であったがある日、母が海に潜っていると小さい観音様が光り輝いていました。命がけで海底から引き揚げ、仏壇に飾って、毎日拝んでいると、あら不思議、娘には髪が生え始め、みるみる長い美しい髪が生えてきた。村人から「かみなが姫」と呼ばれる美少女に成長しました。
その姿が都人の眼にとまり、かみなが姫は藤原不比等の養女として奈良に召し出され、「宮子姫」という名を貰い、宮中に仕えることとなりました。宮子姫は、その美貌と才能を見込まれ、飛鳥時代の697年に文武天皇(もんむてんのう)妃(きさき:夫人)に選ばれました。 後に、奈良・東大寺を建立した聖武天皇の母ともなった。宮子姫は、黒髪を授けてくれた観音様と両親を粗末な所に残してきた事を悩み、その意を理解した文武天皇はご恩返しをするための寺を建てることを命じ、大宝元年(701)宮子姫の古里に「道成寺」が建てられたという。 』
という興味深い伝承が道成寺には伝わっている。

では序ながら、当時の大まかな時代背景と宮子姫について探ってみよう・・、
藤原不比等(ふじわらふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿で、天智天皇の寵臣とされた藤原鎌足の次男である。鎌足は周知のごとく「大化の改新」以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた人物である。その藤原を継承し、更に不動のものにしたのが藤原不比等であった。不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味であるという。
その不比等の長女に藤原宮子がいる。
宮子は史実(歴史上に登場し、歴史書に記載されている事実)として登場してくるが、その出実については殆ど不明で、或いは養女であったのではとも言われている。梅原猛(日本の哲学者)の説によれば、宮子は海人の娘なのだとい、そして安珍清姫で有名な道成寺も発願したと述べている。

これは、前記の「髪長姫」と一致するが・・、
さて、宮子は文武天皇の夫人で聖武天皇を生んだとされている。文武天皇は飛鳥から奈良期(683〜707)15歳で天皇に即位し、その年に宮子を妃にしている、しかし、25歳の若さで没している。 その間、「大宝令」を施行し、官名位号(身分秩序とか特権とかいった性格を持つ)を改正し、以後、完成した「大宝律令」を天下諸国に頒布するなど、律令の整備に尽力している。 これは日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令(司法や立法)であり、7世紀の百済の敗戦・滅亡以降、唐・朝鮮半島の統治制度を参照にした古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であったとされる。又、この制度によって、初めて日本の国号(国名)が定められたとする説も唱えられている。

この時期に、道成寺が創建されている・・、
文武天皇の夫人である宮子姫の願いで、天皇の勅願により大宝元年(701年)に開創されたといわれている。その勅を奉じて伽藍建立に力を注いだのが、紀伊の国司・紀道成(きのみちなり)である。道成は自ら材木の切り出しを指揮して帰る途中、いかだの事故で死亡したとされ、この道成の功績を讃えて「道成寺」と名付けられたと云われる。 
又、太政大臣正一位(官名位号)の藤原不比等の娘・宮子が産んだとされる聖武天皇は、奈良期の724年から749年まで即位していた天皇で、東大寺大仏や国分寺を造らせたことで周知である。仏教に深く帰依して全国に国分寺、国分尼寺を建立するよう命じ、745年に東大寺の造営を命じるなど仏教政策を推進している。

何れにしても飛鳥から奈良初期の時代は・・、
聖徳太子⇒中大兄皇子(天智天皇)⇒天武天皇⇒文武天皇⇒聖武天皇と、紆余曲折を経ながらこれまでの地方豪族の政権から、天皇を中心とした「親政(しんせい)」を目指した時代である。 
大化の改新を経て、大宝律令やその後の養老律令によって「日本」という国の名前や、「天皇」という言葉が使われ始め、更に「年号」が全国民に知れ渡る形で使われ始めた。つまり、日本という国の基本的な骨格が出来上がった時代でもあった。これら制定政策に具体的に関わったのが藤原氏であり、藤原不比等でもあった。 古事記や日本書紀が出来上がったのもこの頃であった。
文化面では、仏教がこの国に伝わってきて新しい精神文化が華開いた。仏教を厚く信仰した聖武天皇は、地方の政治、文化にも目を向け、国分寺(国分尼寺も・・)や大仏建立に尽力した。これによりよって人民は疫病の恐怖から救われ精神的な余裕が生まれたとされるが、ただ、労役や課税で民衆は疲弊し、生活が多少苦しくなったとする見方もある。
道成寺は、新西国第五番の札所である。

次回は、  「紀三井寺」

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熊野紀行(30)和歌山 「紀三井寺」

紀三井寺

結縁坂
写真:紀三井寺本堂と結縁坂



再び、阪和道にて和歌山方面へ・・湯浅から海南市の海南東I・Cで下りて紀三井寺に向う。 
国道42号線か案内にしたがって、紀三井寺の信号を右折し、紀勢本線(きのくに線)の踏み切り渡ると土産物屋が軒を連ねた通りに進むと「紀三井寺」の楼門前に着く。 すでに山腹に寺院の伽藍群の一部が見えていた。
紀三井寺の境内入口に当たる「楼門」は堂々とした立派なもので、著名な寺の山門であることを実感させられる。階段下には立派な石柱で「紀三井山護国院」と刻してあった。 「楼門」から先は、更に急な石段になっているが、「結縁坂」といわれている。
その謂れがあって、その昔・・・、

『 紀の国屋・文左衛門がある日、母を背負って紀三井寺の観音様にお参りの途中、草履の鼻緒が切れてしまい、そこに宮司の娘が通りかかり、鼻緒をすげ替えてくらた。このむすめの親切が縁となり、二人は結ばれたという 』
この坂を「結縁坂」と呼ぶようになった由来である。 

その後、玉津島神社の宮司の出資金によるミカン船で紀の国屋文左衛門は、大儲けしたというのは周知である。 以来、この寺は、良縁成就、商売繁盛として観音様のご利益があるといわれる。 尚、玉津島神社は、眼下の和歌の浦・片男波の風光明媚な箇所に鎮座している。
石段の途中には、院や坊、塔頭などが並んで建っている。いずこも人の気配はなく、静まり返っている。石段には、厄除け石段というのがあり、男性は左側の42段を上がり。女性は、右側の33段の石段を上がって行くと、厄払いができるらしい。

石段の途中に、「清浄水」という清水が石垣の間から一筋流れ落ちている。 紀三井寺の名称は「紀州にある三つの井戸のある寺」に由来しているといい、その内の一つである。「清浄水」の他に「楊柳水」、「吉祥水」とがあるという。 「三井水」は昭和60年に日本名水百選の一つに選ばれている。
長い石段を上がりきると正面に見えるのが「六角堂」左手に「鐘楼」が建つ。「鐘楼」は宝亀2年(771年)に建立といわれ、その後、修復されたようであるが、建物は桃山建築の特徴を示しており、重厚で且つ優美な感じである。
左の奥のほうに堂々とした「本堂」、「講堂」が建つ。 正面、拝所には大きな赤提灯が三つ下がり、「十一面観世音菩薩像」と記してあり、寺院の風情、風格が感じ取れる。 堂内、厨子内(仏像・舎利又は経巻を安置する仏具、両開きの扉がある)に安置されている本尊の「十一面観世音菩薩像」は、為光上人(いこうしょうにん)が自ら刻んだものといわれており、紀三井寺の御本尊としている。
為光上人は、那智山青岸渡寺を開祖したインドの裸形上人同様、唐の渡来僧で、全国行脚中、和歌に浦の風光を気に入り仏堂を建てたのが始まりという。 今から凡そ1230年前昔、奈良朝時代、光仁天皇の御世・宝亀元年(770年)の開基という。 その後、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が当山を勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も500人を越えたといわれる。
紀三井寺のご詠歌は、花山法皇にも詠まれた。

『 ふるさとお はるばるここに きみいでら 
             はなのみやこも ちかくなるらん
 』
(ふるさとである京の都を後にして、幾千里の山河を越え、熊野・那智山から、はるばるここ紀三井寺にやっとの思いで到着してみると、折から水ぬるむ春近き季節で、わがふるさと、京の都も近づいたこともあって、ほっと安堵することよ) 
と心境を詠んでいる。

花山天皇は平安中期の天皇で、在位わずか2年で皇位を退き、19歳の若さで出家して法皇となった。 出家後は比叡山、熊野を転々とし、厳しい修行に勤めたあげく、大変な法力を身につけたという。 法皇は紀州熊野那智山に参籠し、三十三所観音霊場の巡礼を発願し、再興・復興された人物で知られる。
紀三井寺は西国三十三箇所第2番札所にあたる。
紀三井寺は桜の名所としても有名であり、季節には花見に訪れる人で混み合う。本堂の直ぐ前、向かって左側に和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシノ標本木」があって、桜の開花宣言の基準となる木であるという。
ところで、紀三井寺は「三種の冷泉」でその名が付いたといわれる。 一方、近江・大津の三井寺は天台寺門宗の総本山で、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、後に法水として用いられたことから「御井の寺」と呼ばれていたものを、「三井寺」と呼ぶようになったという。 両寺院は、同名であるが意味合いは異なるようだ・・。


記載に関して、「世界遺産」とは無縁の内容も多々ありましたが、あくまでも小生の「南紀地方の旅」の記録でもありますのでご了解願います。
引き続き、ごく近年世界遺産に登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」(2007年6月登録)について記載いたします。この内容についても小生が2005年5月に「日本一週旅行」の際に立寄った状況を世界遺産に沿って記述するものです、ご期待ください。

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