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【紀伊山地の霊場と参詣道】2
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熊野紀行(3)南紀白浜 「千畳敷と三段壁」

三段壁

千畳敷
写真:三段壁と千畳敷


次に、白良浜とはうって変わったような真反対の風景が名物「千畳敷」や「三段壁」である。白浜半島・・?の最西端に位置していて、特異な岩盤海岸風景を呈している。
「千畳敷」は、その名のとおり広い岩畳を思わせる大岩盤で、瀬戸崎の先端から太平洋に向けて突きだしている。 スロープ状になった白く柔らかい岩は地球の古代層の砂岩からなる大岩盤で、打ち寄せる荒波に浸食され壮大な景観を造っている。よくよく見ると、千畳敷は砂岩でできているため容易に削ることができるのである・・、硬貨ででも削ったのだろう、岩肌の面々はどこを見ても落書きだらけで、その内容は珍妙なものも有る。 
地元の人は千畳敷をその程度のものとは考えてはいないだろうが、天から与えられた自然の景勝であり、もっと大切にしたいものである・・!!。
岩盤中央に、カメラマン用の専用台であろうか・・?、赤錆びた鉄製の架台が潮風に吹かれて置かれているのが妙に印象的であった。 我々もここで一枚パチリ・・!。

銀砂の白良浜から、波濤が岩盤を洗う千畳敷、そして今度は更に極端な「三段壁」といわれる断崖絶壁の海岸である。
御土産屋の大きな駐車場に車を置かせてもらって松林の間をくぐってゆくと、視界がパッと広がって大洋に面した大断崖の様相が目に飛び込んできた。 展望台に立つと 尚その圧倒的な迫力に息を呑む。 高さ50mもの断崖絶壁が約2kmにわたって大平洋にせり出した奇観が続いている。 
はじめは好奇にかられて延々続く絶壁の際を歩き回ったが、覗く度に肝が冷えるところである。 聞けばここは投身自殺の名所だとか・・、絶壁近くには立ち入り禁止の柵もあって、一角に「投身自殺者海難の碑」が有り、何方かによる供物が供えてある。
この断崖の下部、海面に近いところに「三段壁洞窟」なるものだある。
その地までは岩盤をくり抜いたエレベーターで行くことも出来るらしいが、波の荒い時は大平洋の波濤が壁面に叩き付け、大きな飛沫をあげながら吹き込んでくるときもあるとか。この洞窟内は、往時は「熊野水軍」の船着場或いは船隠し場の跡とされた。 又、旧帝国海軍の特殊潜水艇「回天」の基地だったという噂もあるとか。
深い洞窟内には、南方熊楠が天皇に献上するための生物標本を採集をしたという地でもあるという。

ところで昔でいう水軍とは警固衆、海賊衆、船手衆などと呼ばれていて、海上の武力を買われて船舶往来の護衛などに雇われていた集団の意味でもある。 中世期には彼らは熊野社を背景に次第に組織化され、軍事集団である「熊野水軍」の元となった。
平安末期の源平合戦たけなわの頃、熊野の別当・湛増は強大な戦力である熊野水軍を配下に収めていた。 源氏と平家の双方から加勢を頼まれた湛増は、戦況を冷静に見守りながら源氏への加勢を決めたといわれる。「三段壁洞窟」の船倉から百隻の軍船を引き出し、田辺浦から出陣して壇ノ浦で源氏に加勢、平家軍を壊滅させて熊野水軍の武勇を天下に知らしめた。 一説によるとこの湛増は、武蔵坊弁慶の父であるといわれている。(平成17年、NHK大河ドラマ「義経」から・・)
戦国期は、九鬼 嘉隆(くき よしたか)が志摩国の国衆の一員として大名までに身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍して3万5千石の禄を得ている。 
信長が嘉隆に命じて鉄甲船の製造を指示し、毛利の水軍を打破ったのは有名な話である。

これから先は紀伊半島の南端の海道を暫く走る。海道といっても紀伊山地が海岸まで迫り出し、決して平坦安楽の道ではないが・・。勿論、太平洋の怒涛が直に押し寄せる地域でもあるが今日、この陽気ではさすがに海面は穏やかなようである。 
又、この道は古来は「熊野古道・大辺路」といって、中世以降の熊野詣でへのメインルートであり、海に面した海岸縁を串本を経て那智に至るルートでもあった。
熊野古道・大辺路は、田辺から串本までの枯木灘海岸(潮岬西部、周参見・すさみの海域)や串本から新宮までの熊野灘に面した海岸道であるが、海辺のわりに険しい山々が海岸まで迫り、通行に際しては数多くの難所が待ちかまえていた。 俗に四十八坂とも呼ばれ富田坂、馬転坂、長井坂といった険しい峠道が旅人を苦しめたといわれる。 ただ、あちこちに残る古道の峠道からは太平洋・熊野灘の眺望が今も変わらず旅人の心を癒してくれた。
又、田辺から内陸方向、概ねR311に沿って通り、本宮を経て熊野川沿いに新宮・那智まで下る山の道を「中辺路ルート」という。

次回は「串本」・潮岬と・・、

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熊野紀行(4)串本 「潮岬と橋杭岩」


写真:橋杭岩と潮岬


「すさみ」の海岸は、変化に富んだ美景が続く。
国道42号沿いに「すさみ八景」と言われる穂積島、沖の黒島と陸の黒島といったに二つの黒島を含めた壮大な景観が広がる。 激しい波頭が陸の黒島に当たり、真っ二つに裂けた波が再びぶつかり合う様子が夫婦の波の様だといい、合掌波または夫婦波とも呼ばれて枯木灘を代表する奇観である。この展望地を「恋人岬」又は夫婦岬といい、なかなか洒落たネーミングである。 
われ等夫婦も綾かって記念撮影し、その波の様子も写真に収めることが出来た・・。

間もなく串本海中公園に着いたので立寄って見た。 
串本の海を再現した大水槽、水中トンネル式大水槽などの見所もある。 串本の海は遠くフィリピン沖から来る黒潮の影響を受け、カラフルな魚やサンゴ、エビ、カニなど熱帯、亜熱帯性の生物を豊富に見物することができた。 「海中展望塔」は沖合の水深の海底にあって、自然の海の青く澄んだ世界が広がる。サンゴの間を泳ぎ回る熱帯魚が乱舞する様は、まさに青いメルヘンの世界であった。

国道42号線は、陸繋島(りくけいとう)である潮岬の付け根まで接近していて、そのまま先端の灯台へ向った。
「陸繋島」とは、砂州によって陸と島とが陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると沖からの波が島の裏側で打ち消しあい波の静かな部分ができる。 この部分には沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなる。 潮岬は昔は浅瀬の島だったのである。
先端島部の岬は台地状で、海岸部は40〜50mの海食断崖を呈している。 南西端に「潮岬灯台」が立ち、周辺には潮岬タワーや、「望楼の芝」とかいう芝生の園地が広がる。 白亜の灯台は表札の有る正門を構え、灯台小屋の奥に屹立していた。
この灯台は明治初期の「江戸条約」によって建設された八基の洋式灯台の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台だという。条約灯台とは:観音埼、神子元島、樫野埼、剱埼、野島埼、潮岬、伊王島、佐多岬などである。 
本州最南端に位置する灯台は参観もでき、灯台に関する資料展示室も併設し常時公開されている。 灯台の展望スペースからは眼下の磯小島が点々と連なり、視界の大部を占める太平洋の水平線は地球の丸みを感じるのである。 実際は「地球の丸み」ではなく視界の丸みであるが・・!ロマンが無くて失礼・・。

岬の突端に一人ポツンと立つ白亜の灯台は、「おふくろ」の姿に重なると誰かが言っていた。
灯台は何処へも行かず、雨の日も風の日も同じ場所で、着飾りもせず日没と共にピカッ、ピカッと静かに遠くまで光りを投げかけ、ひたすら船の航行の安全を願ってる。
それはまるで朝早くから夜遅くまで甲斐甲斐しく家事をし、夕暮れには灯りを付けて夕食を作り、家族の帰りをじっと待つ母の姿に似ていると。
因みに、隣の紀伊大島の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、東端断崖に建つ灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で設計し、1870年に点灯した日本最初の石造灯台だといわれる。 日本最初の回転式せん光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。 そしてこの地は、トルコの軍艦エルトゥールル号遭難地としても知られている。
こちらは白亜の無人灯台で、灯台内部へは入れないが外部階段から灯台上部に登ることができる。 灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ、またトルコ記念館やトルコ軍艦遭難記念碑が徒歩圏内にある。

エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が串本沖・紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件である。この時、地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。

串本節』 和歌山民謡
アラヨイショ ヨーイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
♪♪・・「ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡航船」 
(以下かけ声省略)
「潮の岬に 灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ」
「一つ二つと 橋杭立てて 心とどけよ 串本へ」

                   

と歌われている大島であるが、今は串本と大島に「串本大橋」が架かる。 
ループ状と半円形の橋の姿は名所の一つにもなっていて、袂に「四海兄弟」(しかいけいてい:すべての人間は人種・民族・国籍を問わず、兄弟のように愛し合うべきであるということ・同義・四海同胞)という碑が有り、並んで「串本節」の碑がある。 民謡 串本節に歌われたような巡航船の姿は、今は無くなってしまったようである。

戻った先の国道42沿いに「橋杭岩」という名所が在る。
『昔、むかし、大島に住む人達は、本土に渡るのに、嵐の日には船が出せず困っていたそうな。「橋があれば、本当に便利だのになあ」と何時も思っていた。 伝承によると昔、南紀を修業しておられた弘法大師は、天の邪鬼(あまのじゃく)と串本から沖合いの大島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。 島民の願いを元に一晩で橋を造ろうと決心した大師は、必死になって海の中に杭を打ち、もう少しで完了と言うところで天の邪鬼が邪魔をして朝が来たのを知らせる。それは鶏の鳴き声を真似て、高らかに響かせたものだった。 さすがの大師も朝が来たと思い橋を造るのを途中で止めてしまったそうな・・』 然るに今の姿になったと言う、「弘法大師と橋杭岩」話である。

小波が荒磯を洗う岩場に降りてみると、その巨大な岩の像が一列に並び、確かに大島に向って衝立しているのであり圧巻、奇観である。 今は、弘法大師の願いも叶い立派な橋がつくられたが。天の邪鬼は日本の妖怪の一種、人に悪戯をしかけるひねくれ者の子鬼というのが一般的であるが・・、一方、仏教では人間の邪心を表している子鬼であり四天王に踏みつけられている像は有名である。
対岸の大島に向かってあたかも橋脚を並べたようにそそり立つ岩列が、これが橋を造る時の杭のようにみえるので「橋杭岩」と呼ばれている。この岩列は太古の昔、紀伊半島の那智、熊野に至る地域で起こった火山活動の産物で、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し冷え固まった物であるという。 橋杭岩を通して見る昇る朝日は絶景で、「日本の朝日百選」の認定され、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。

紀伊南部の第一の清流と言われる古座川の「古座大橋」を渡る。
河口海面スレスレで、左は清流の流れ、右は潮岬が望まれ太平洋が無限に広がり、上流部は人家が少ないので自然が豊富、魚も豊富で川からの恵みは十分に受ける。源流近くの川筋には狼やカワウソもいるとおいわれているが・・?、支流である平井川の上流は国の特別天然記念物のオオサンショウウオが増えすぎているとか、それほど綺麗で奥深い川なのである。
司馬遼太郎氏が、この川筋の渓谷美が気に入って別荘を購入したと聞いたことがある。

玉之浦という深く入り江を成した静かな海域を眺めながら「太地」の駅を通り越し、湯川地区を過ぎると今日の目的地である「那智勝浦」は真近である。案内板に従って進むとホテル専用の大駐車場が在り、専用の送迎バスに送られると波止場に着く、更に専用の送迎船に揺られて、やっとこホテルに到着した。那智勝浦の名所・「ホテル浦島」である。 
七階の好展望の部屋に案内され先ずは一息入れた・・。

次回は、「那智勝浦」   part3へ

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