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【紀伊山地の霊場と参詣道】
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熊野紀行(7)熊野古道 「大門坂」


写真: 「大門坂」、上から振ヶ瀬橋、夫婦杉と大門坂の石段


ホテル浦島から、先ずは那智山の名勝を目指す。
紀勢線と国道42号線を横断して那智川沿いの道を進む。 屈曲しながら緩やかに上ってゆくと大門坂駐車場があったので、これより「上さんに」機嫌をを伺いながら徒歩で行くことにする、 所謂、「熊野古道」を辿る事になる。 
この更に上部には、「熊野那智大社、那智山青岸渡寺、那智の滝」という那智勝浦随一の名所がそろっている。 たぶん「世界遺産」第一の核心部であろう。
一般観光客である殆どの人々は車又は観光バスで「神社お寺前駐車場」まで上がってしまうのだろうが、しかし、その手前には杉並木に囲まれた石段「大門坂」という熊野本来の古道・名所が残されているのである。 我等は車を預けて、先ずここから訪ねることにした。
案内に従って少し行くと本道(県道)よりV状に分かれる、その角に「大門坂」「熊野道」などの案内と碑が立っていた。 数軒の民家があり、この民家の一角に大正期「南方熊楠」が定宿で滞在した旅館があったとか。 
南方熊楠はここの離れを寄宿として那智山中の植物調査を行い、那智原生林の伐採計画を耳にしたとき那智原生林の保護に尽力したという。 この時期、お役人は那智の滝を使って水力発電をする・・、何ていう計画があったとか・・、今思うとゾッとずる話であるが。
鳥居をくぐると小さな朱色の欄干の「振ヶ瀬橋」が架かっている、ここが聖地への架け橋、入り口であろう。 嘗てはここに関所があったそうで、不浄の人物でも取り締まっていたのだろうか・・?。 
大門坂茶屋という鄙びた造りの茶店があり、ここでは平安衣装の貸し出し(有料)も行っていて若い女性には人気があるという。
間もなく「夫婦杉」が見えた、石畳の道の両側に一対を成し天に聳えている。 幹の周囲は8mもあり樹齢800年と推定される杉の巨木で周辺の歴史の深さが伺える。 
この先は石畳と石段が続く・・、素晴らしいの一言である。
ほどなく、熊野九十九王子の最後の王子「多富気王子」(たふけおうじ:王子については後述)がある。 大きな石碑が建てられており、地元の人は「幼児の宮」と呼び親しんでいるとか、「たふけ」は手向けの意味らし、傍らに庚申が祀られている。

どんどんと苔むした石畳の石段を登っていく、道の両側には数百年を経た巨大な杉並木が連なっている。 石畳の生した苔もそうだが、千年来の踏み跡であろう・・?、石段は丸みを帯びて磨り減っているのが判る、これらも歴史の重みを感じる一様であろう。
古老の杉の大木の下に苔むした大石があり、「十一文関跡」とあった。 参詣人から多少の通行税を徴収していたのだろうか・・、十一文関というからには通行料は十一文だったのであろう・・?。
石段は全部で267段、約600mの道程はもうすぐ終わりる。 
上りきると開けた場所に出て、ここは既に那智大社の境内の一角でも有る。ここに嘗ては仁王像が立つ大門があって、即ち「大門坂」と名付けられたといわれる。尤も実際の社殿の境内はこれより更に石造りの階段を昇った上方にあるが。

「大門坂」は、熊野那智大社への参道で熊野古道・「中辺路」(なかへじ:熊野ではへんろと呼ばずへじと読む)の一部である。 
勿論、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録物件で、往時の面影をもっとも色濃く今に残している場所である。 
高低差約100mの苔むした石畳道と樹齢800年を超す老杉群に囲まれた古道は夫婦杉、古い関所跡や古跡もあり、尚且つ熊野霊場への入り口、参道と云うべき史跡でもある。

「熊野古道」とは、近畿・紀伊半島南部に在する熊野三山大社である本宮大社、速玉大社、那智大社への参拝の道である。熊野詣の古道は平安期に開かれ始まったといわれ、紀伊半島の東西の両方向から参るようになっていて、其々参道に名称が付いている。 
先ず西側であるが・・・、
京・大阪から紀伊半島を西回りで大阪、和歌山から田辺に達するのが「紀伊路」と称し、更に、田辺から海道を串本そして新宮に至る道を「大辺路」と呼んでいる。又、田辺から大辺路と分岐して内陸部を通り、本宮大社、更に那智大社、新宮へ至る道を「中辺路」と称した。 
東からの道は主に江戸時代にはじまったもので、伊勢からの熊野、新宮へ至る「伊勢路」がある。 一般に紀伊路、大辺路や中辺路は京の都人が通ったのに対し、伊勢路は庶民の道であるともいわれる。
他に、熊野三山参拝後、高野山に抜ける「小辺路」、吉野・大峰山に抜ける「大峰奥駆道」がある。
この内、先に紹介したが、「世界遺産」に登録された「参詣道」は主に4箇所ある。

1つ目は、小辺路と呼ばれる高野山を中心とした石畳や本宮に到る約70kmの参詣道・・、
2つ目は、大峰奥駆道の全域で吉野から本宮にいたる140kmの参詣道・・、
3つ目は、熊野三山を中心とした中辺路、大辺路の大部分の参詣道・・、
4つ目は、伊勢神宮から新宮へ到る伊勢路の主要部分の参詣道

因みに、京人の参詣の道筋を辿ってみると・・、
京都の上皇や皇族、公卿たちは京から淀川を船に乗って大阪・天満橋(当時の渡辺の津・八軒屋)で上陸。 先ず、熊野九十九王子の第一番である「窪津王子」(王子に関しては詳細後述)を参拝し、それから紀伊路の街道筋に点々と有る王子社を巡拝しながら長い、苦しい旅を続けた。道はそこから一路海辺を南下し、紀伊の国の国境、峠そして紀ノ川を渡り更に田辺に到る。 ここから先は中辺路を通り熊野本宮の山中の道に入り、ようやく本宮大社に達して参拝を済ませる。
本宮からは熊野川を船で下り、新宮、那智を巡って後方に聳える妙法山に登り、雲の中を潜るような大雲取、小雲取の険路を越えて再び本宮大社にでて都への帰路につく。
これが往時における熊野詣での一般的な順路だったらしい。

その内「大門坂」は、新宮・速玉大社から那智駅そばにある補陀洛寺(ふだらくじ)、「浜の宮王子」へ至り、那智川沿いの尼将軍供養塔などを経て那智へ到るルートで、「那智大社」直下にある最も古道らしい雰囲気を残した名所である。

次回は、 那智大社ほか・・、

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熊野紀行(8)熊野三山 「那智大社」


写真:熊野三山の一つ「那智大社」


大門坂を終えて、妙法山へ延びる主要道を横切ると那智大社への立派な階段がある。 
階段のサイドには各種お土産店が立ち並び、真に賑やかでこれらを眺め、楽しみながらゆっくり登るのが良いだろう。
473段という長ーい石段を登り、標高約500mの地に朱色の華麗な社殿が鎮座している。 
階段下には真紅の鳥居が構えていて、いよいよ聖地へ分けは入る感がある。  横に「熊野那智大社」と記したやや古ぼけた石柱があり、鳥居正面には名額には「那智山熊野権現」としてある。  この刻字の「権現」を見ても、この熊野の地も「神仏混交」が行渡っていることが判る。現に社殿横には神社・神宮寺である「青岸渡寺」の寺院が並んでいるはずである。
手水舎で清めて二人は徐(おもむろ)に石段を上る、左側には各種の御土産、飲食店が賑やかに並んでいて退屈しない。
頂上にも同様の鳥居が屹立していた、そして、そこには煌びやかな朱色の社殿が並ぶ、拝殿、本殿、八社殿と・・。 先ずは拝殿に額ずいて拝礼を致す、特別な祈願はないが、先ずは道中安全と家族平穏を祈った。

古来よりこの大社は、「熊野速玉(新宮)大社」、「熊野本宮大社」とともに「熊野三山」と呼ばれ多くの人々の信仰を集めている。 
社殿は六棟からなり夫須美神(ふすみのかみ)を主神として、それぞれの神様をお祭りしている。 夫須美神はお馴染の・・?伊弉冉尊(イザナミノミコト)ともいい、万物の生成・育成を司るとされ、伊弉諾(いざなぎ)と共に黄泉の国で天照神(あまてらす)や素盞嗚尊(すさのお)を生じさせたと言われる日本神話の神、日本の国土を生んだ神世七代の最後の神である。
第一殿(瀧宮)には、大己貴命(大国主:飛瀧権現、千手観音)、第四殿(西御前)には、主神の熊野夫須美大神 (千手観音)、第五殿(若宮)には天照大神(十一面観音)、第六殿には八社殿が有り、主に瓊々杵尊(ニニギ: 龍樹菩薩)、彦火火出見尊 (ホオリ・山幸彦:如意輪観音)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズ:聖観音)等、日本国土創世記のそうそうたる神々が合わせて「十二神」祭れている。
十二祭神は熊野十二所神ともいわれる。 
これは今も尚、熊野那智大社は「熊野権現」あるいは「十二所権現」と呼び慣わしていて、「神仏習合時代」に神々と仏が一体とした由縁で祀られている。所謂、本地仏名も掲げてあり、括弧内の観音名がそうである。

神仏習合の本地仏名とは「本地垂迹」(ほんちすいじゃく)ともいわれ、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。
「権」とは「権大納言」などと同じく「臨時の」、「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。 「垂迹」とは神仏が現れることを言い、「本地垂迹」とは日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿を変えて迹(アト)を垂(タ)れたものだとする神仏同体説で、簡単に云えば日本各地に祭られている神々とは、仏教の仏たちが仮の姿で現われたものと説いている。
これを神社側の視点に立って説明すれば、神々はそのままでは俗世に姿を現すことができないので仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるのだという。 
こうした説は平安初期ごろから流布しはじめ、中世には概ね日本人の感覚として定着していったといわれている。
熊野三山に祀られる神は熊野権現(くまのごんげん)ともいい、又、熊野神、熊野大神とも言って神仏習合によって権現と呼ばれるようになった日本でも代表的な神域である。
熊野神は各地の神社に勧請されており、これらの神を祀る社宮を熊野神社、十二所神社とも言って日本全国に約3千社もあるという。

ここ那智大社は、次に述べる「青岸渡寺」とともに神仏習合の状態が三山でただ一つ現地で観られる貴重な地域でもある。 この神仏習合という思想形体は、平安初期に始まり明治初期の明治政府によって「神仏分離」政策が施行されるまで、実に1000年以上も続いたのである。

次回は、 「青岸渡寺」・「那智大滝」   part5へ

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