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【紀伊山地の霊場と参詣道】
南紀霊場:part5(青岸渡寺・那智大滝、補陀洛山寺)  Part6(新宮・徐福伝説、神倉神社、速玉大社)へ
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熊野紀行(9)那智山 「青岸渡寺・那智大滝」


写真:御馴染みの構図:那智三重の塔と那智大滝(合成ではありませんヨ・・!)


前記したが、この先参拝する速玉大社(新宮大社)と本宮大社は明治初期の「神仏分離」により仏教色が除かれ、仏堂は全て棄廃されて完全な神社神道様式になったのであるが、ここ那智大社は隣の「青岸渡寺」(せいがんとじ)に観るように神仏一体の伝統が今現在も守られている地域である。
 
『 補陀洛(ふだらく)や 岸打つ波は 三熊野(みくまの)の那智のお山に ひびく滝つ瀬 』
と御詠歌(巡礼または仏教信者などがうたう和歌)で親しまれている「青岸渡寺」は西国第一番の札所である。
当山の縁起に、開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧・裸行(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積み、その暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得して、ここに草庵を営んで安置したのが最初といわれる。
 
那智大社の東側奥に「那智山青岸渡寺」の本堂が隣接して建っている。
神仏分離による廃仏棄却の際、那智大社では観音堂が破却を免れて後に信者の手で「青岸渡寺」として復興したといわれる。 本堂は寺院様式・入母屋造りで東南向を正面に趣のある堂々とした建物で歴史を感ずる。外部だけでなく内部もなかなかのもの、本堂に祀られている本尊「如意輪観世音菩薩像」は約1400年も前に造られた由緒のある仏像とか。 
本尊は秘仏であり、通常、本尊は直接拝観できないが2月の一日だけ開扉されているようである。珍しく本堂内撮影禁止などというミミッチイことを云わないのもいい。

本堂は現在までに数回改築されているらしいが、現存する本堂は織田信長の軍勢によって焼き討ちされた後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が弟である大納言・秀長によって再建させたものである。 
因みに、「豊臣秀長」は秀吉の異父弟、秀吉の片腕として辣腕を奮い、文武両面での活躍を見せ天下統一に貢献した。紀伊・和泉などの64万石初代当主、 和歌山城の築城を果たしてい。
その後、本堂、御堂を中心とした伽藍造営が本格的に行われ、熊野三山の一つである熊野那智大社とともに大隆興している。 観音霊場巡りの「中興の祖」と呼ばれる花山法王は、この山に千日篭り後に西国33ヵ所第一札所とした。それ以来、那智巡拝は盛んになり現在に至るまで絶え間なく続いているという。
本堂のすぐ下に「山門」が建っている。
昭和8年(1933年)の建設といわれており、朱塗りも鮮やかで見た目にも新しい建物である。山門に安置されている金剛力士像は湛慶の作と伝えられている。その下の石段基部に「根本札所 西国第一番 なちさん霊場」と風雨に晒された石柱が立つ。「なちさん」と平仮名で彫ってあるのがいい、もしかしたら相当年代物かも知れない・・?。

境内広場のすぐ上に真紅の「三重の塔」が艶やかで鮮やかである。 そして、右手山腹に、かの名瀑布、日本一の「那智の滝」が望観できる。「三重塔と那智の滝」の配置・フレームは一服の絵であり、多くの観光用パンフレットでお馴染みである。 
この「三重塔」は昭和47年(1972年)に再建されたといわれている通り、見た目にも新しい建物である。 その内部には「飛滝神・大滝」の本地仏である千手観音が安置されており内部の壁面には彩色の金剛諸界仏、観音、不動明王などの壁画が描かれている。 
ただ建物が新しいだけに相等に壁画も新しいという・・、500年後、1000年後にはどうなっているか・・?、塔の歴史は刻み始めたばかりである。
展望の良い境内からは「那智の滝」の後背部が那智山系に連なっているのが鮮明である。 構成する山々は大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)、などがあり、この雲峰の地は熊野古道が延びているのである。又、那智滝や急渓流などの水源林である那智原始林(天然記念物)の深い山様、森林が残されている。
那智山・青岸渡寺から徒歩で20分ほど古道を登ると那智高原公園で、現在も果たしてそうであろうか・・?この地は「富士山が見える最遠の地」とも云われている。

熊野の人々は険しい山と美しい川や海と共に暮らし、古くから山や滝、巨岩、巨石、巨木などに神々が宿ると信じて崇めてきた。 
この熊野の地は神武天皇が東征の際に上陸し、八咫烏(やたがらす:後述)の案内で熊野の深い山々を越え大和に入ったとされている。 その後、仁徳天皇の時代に那智の滝より社殿を現在の那智大社に移し、仏教の伝来とともに神仏習合の信仰が広まり、「蟻の熊野詣」(ありのくまのもうで:後述)と言われるほど多くの人々に信仰されたという。
熊野那智大社、青岸渡寺、那智の滝等を総称して「那智山」と呼んでいる由縁である。

次にその「那智の滝」へ向う・・、 
一旦降りて商店街が並ぶ車道を下り、道が大きくヘアーピンカーブを描いているその先端に大滝の入り口である林の中に雰囲気ある鳥居があった。鳥居には飛滝神社の名額が掲げてある。
何故か鳥居正面の参道の真ん中に老杉が立つ、これも自然神域の一画であろう、その横に自然石で那智大滝と記してあった。 鳥居を潜った参道は、やや急な石段が森の奥まで延びている。 次第に滝壺の音が大きくなってきて、やがて眼前に現れた、正面に第二の鳥居が見張り番のように立っている。 
こうして日本一の滝を眼前に見られ、その豪快さに、ただただ黙念とするばかりである。
「那智大滝」はその落差133mといわれており、最上部の滝口は三筋になっていて、これが那智の滝の特徴とされ「三筋の滝」とも言われる。 

滝口の上に注連縄(しめなわ)が張られているが、この滝は滝壺の近くにある「飛滝神社」のご神体とされている。 飛滝神社の前からは那智の滝を更に目前に見上げることができる。
那智大滝の奥、那智山系の那智原始林には60余に達する多くの滝があるというが、このうち48の滝は「瀧篭の行場」(滝にこもって修行する場)とされ、これらの滝には其々番号と諸宗教(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられているという。それらの滝を総称して「那智四十八滝」と呼び、この那智滝第一である「那智の大滝」を「那智一の滝」と称している。
因みに、これら四十八の滝は那智山内にあり主に本谷、東の谷、西の谷、新客(しんきゃく)谷の4つの谷に点在し、那智一の滝の他に曽以の滝(文覚の滝)、那智二の滝(如意輪の滝)、那智三の滝(馬頭観音滝)、大日霊女滝(大陽の滝)、登磨免の滝(念仏の滝)、倍牟の滝(弁財天の滝)等々と称して、これらは修行者各自身が命名したととされている。
これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる「裸形上人」をはじめとする宗教者達のほか、巡礼中興の祖・花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて「千日瀧篭行」をしたと伝えられている。

ところが、明治初期以降は神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの「行」を支えた神仏習合的な信仰が失われたという。加えて、那智での瀧篭行は特に厳格さや秘密性が強く、行法や作法の伝授も全て口伝であったため、所在や名称の文覧も不明となっていたという。だが1991年、わずかに残された古地図・古文書などを手がかりに地元の有志・新聞社・僧職・神職などが「四十八滝探査プロジェクト」を行い再確定に成功したともいう。
そして更に1992年からは青岸渡寺の主唱によって、那智四十八滝・回峰行も再興されているという。
尚、那智大滝は日光華厳の滝、常陸・袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

次回は、 補陀洛山寺

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熊野紀行(10)補陀洛山寺 「浜の宮王子」



写真: 「補陀洛山寺」と渡海船を復元した模型


定期循環バスで一旦駐車場の場所まで引き返し、次に「熊野速玉大社」へ向うが、その前に勝浦の浜の一角にある「補陀洛山寺」へ立寄ることにした。
ヘアーピンカーブの急な坂道を下っていくと、こんもりした杉の大立ちが列を成して延びている・・、先ほどの「大門坂」である。 来た道をそのまま下ってやがて国道へ出ると、その左角に「補陀洛山寺」が在った。
広い境内は庭園らしい創作は無く、芝生を敷き詰めた単調な広場であった。 奥まった所に室町様式の「高床式四方流宝形型」といわれる品の良い造りのお堂・本堂が構えて在った。比較的新しいと思われるほぼ正方の造りである。 正面拝所の上部に右書きで「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)と記してある。 お堂内正面須弥壇(しゅみだん:仏像を安置する台座)には本尊の十一面千手観音像が安置されているのが判る。
創建は那智山・青岸渡寺の開祖で、仁徳天皇の御世(4世紀)にインドから熊野の海岸に漂着したといわれる「裸形上人」によって開山されたと伝える古刹である。 今は、那智大社や青岸渡寺のような賑やかさは全く無く、静寂の中にヒッソリと佇んでいる。
しかし、寺院の歴史は青岸渡寺と同様に古く、宗教儀礼である「補陀洛渡海」で全国的にも有名で、尚且つ世界遺産にも登録されている由緒ある物件なのである。

境内の一角に「熊野古道・浜の宮王子」と記した石柱が建つ。
又、境内右手には、ここは大木に囲まれて「熊野三所大神社」として、やや粗雑な社殿が鎮座していた。 熊野三所社とは本宮、那智、速玉の各大社の意味であろう。この神社は、元は熊野九十九皇子の一つで「浜の宮王子」だったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしゃ)とも呼ばれている。
浜の宮王子は中辺路、大辺路、伊勢路の分岐点でもあり、熊野参拝の起点に成るところである。那智山参拝前にはこの王子で「潮で垢離」(こり:神仏への祈願や祭りなどの際、冷水を浴び身を清めること)を行って身を清めたといわれている。 
補陀洛山寺は浜の宮王子の守護寺でもあり、那智山の末寺の一つである。
明治初めに那智山で神仏分離が行われたとき、那智山の仏像仏具類が一斉にこの補陀洛山寺に移されたともいう。 寺院の本堂は平成2年(1990)に建て替えられたということで新しいが、本尊の十一面千手観音は平安後期の作で重要文化財に指定されている。

仏教では西方の「阿弥陀浄土」と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落(補陀洛、普陀落、普陀洛とも書く)と呼ばれた。補陀落は、観音菩薩の浄土であるとい教示している。
その名を称している「補陀洛山寺」は特異な寺院として往時は良く知られていた、ここが補陀洛渡海の出発地とされたからである。 
那智地方には熊野灘の彼方に観音菩薩が住む浄土・補陀洛(ふだらく:補陀落浄土)があるという信仰があり、そのため僧侶、住職達は浄土へ向かって旅だっていったとされ、これを「補陀洛渡海」と称している。 仏教経典でいう「渡海」とは、自己を入仏させる「捨身行」の一つの形態であり、渡海船を用いて補陀洛浄土へ旅立つのである。
実際に行われた「渡海行」は、平安初期の9世紀から凡そ850年間の江戸中期の18世紀初頭まで続いたと記録にもあり、計20人の僧が渡海したとされる。ただ、江戸期を境に生きたままの渡海はなくなったという。

現在の補陀洛山寺の住職・高木氏は・・、

『 今から見たら生命軽視とみられるかもしれない修行ですが、信仰に命をかけた先人の行為を知ることで、その人なりに目標を持ってがんばる気持ちになられるなら、この行のことを現代も語る意義があるのではないでしょうか 』
・・とも語っている。 

尚、昭和40年代ごろから、補陀洛山寺の住職は、近くの那智山・青岸渡寺の住職が兼ねているともいう。
その渡海船を復元した模型が、寺の境内の建物の中に展示してある。
特に補陀洛山寺の住職は61歳になると渡海を行うことが何時の頃からか習慣化していったという。 
16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こったという。 
後にその島は「金光坊島(こんこぶじま)」とよばれるようになり、またこの事件は井上靖氏の小説『補陀洛渡海記』の題材にもなっている。 

補陀洛渡海記』 作 井上靖
『 熊野補陀落寺の代々の住職には、61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった。 周囲から追い詰められ、逃れられない時を俟つ老いた住職・金光坊の、死に向う恐怖と葛藤を記した表題である・・』
以降、江戸時代になって生者の渡海は行われなくなり、代わって補陀洛山寺の住職が死亡した場合、あたかも生きているかのように扱って、かつての補陀落渡海の方法で「水葬」を行うようになったという。
補陀洛渡海で往生した僧たちは渡海上人とも呼ばれ、補陀洛山寺の裏手には渡海上人たちの墓がある。 記録では那智の浜からは21人が渡海を遂げたと言われ、こちらにも補陀落を目指して船出した人々の名を刻んだ碑が、寺の境内に置かれているという。

寺院を一巡して速玉大社に向かった・・。

次回は、 新宮・「徐福伝説」  part6へ

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