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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(13)新宮 「阿須賀神社」


写真:新宮市熊野川の袂にある伝承の「阿須賀神社」


「熊野速玉大社」の位置を地理的に見ると、熊野川の流れが大洋・熊野灘にさし掛かる頃、千穂ヶ峰・神倉山の大岩山塊に阻まれて山裾をS字状に蛇行しながら熊野灘に達している。 大社は、そのS字状の河口側に鎮座していることになる。 即ち、大社は神倉山の峻険な神岩の地から清冷の水辺の里に降りたことになる。速玉大社は、神倉社の遷宮であり、即ち新宮でもあった。  この新宮の名を戴いて地域の名称も「新宮」としたのであった。

それはさておき、大社の鎮座する川の畔から河口へ向って更に1kmほど降りると、「阿須賀神社」(あすかじんじゃ:飛鳥社)というのがこじんまりと鎮座している。 社殿は朱色と白漆喰が眞新しく小ぶりながら豪奢な造りである。 この神社の境内は深い緑に覆われた50m足らずの小山が川岸に突き出ていて、駅からも近く新宮市街の中心にあっても異境の自然を保っている。この小山を「蓬莱山」と称して、阿須賀社宮の御神体ともされている。
弥生時代の頃には蓬莱山は海に囲まれた小島だったらしく、それが海岸線の後退に伴って、平野部とくっついたものともいわれている。 
近年(昭和中期)この山腹の自然岩の裾、社宮の境内から弥生時代の竪穴式住居跡が発見され、多くの土器等が同時に出土したという。 遺物群は生活主体の物具であるが、併せて平安〜室町時代の遺物は悉く仏教系祭祀遺物も発掘され、中世の神仏習合化した熊野信仰に関わる祭祀遺物ではないかとも云われている。 その中には「御正体」(鏡の表面に神像・仏像・梵字などを線刻し、社寺に奉納、礼拝したもの、神仏習合による本地仏ともされる)といわれる神仏鏡像も出土している。これらは弥生期において、蓬莱山における岩山祭祀の存在を示す発見として興味深いといわれる。

又、この蓬莱山である小山が河口にあるということも重要な点で、阿須賀の「須賀」は砂洲、砂丘、砂浜など砂がたまるところを意味する古語の「すか」から来ているという。
先にも記したが、「蓬莱山」という名は徐福伝説とも関連があり、又、ここ阿須賀に徐福が上陸したという伝説もある。 神社境内には「徐福の宮」も祀られている。
元来、蓬莱山とは古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた五神山(仙境)の内の一つとされている。 実際に中国・渤海湾に面した山東半島にこの山は存在し、不老不死の仙人が住むと伝えられている。伝承として、中国では蓬莱のことを「日本」と言う意味を指すとも言われる。
蓬莱山は現在、全山禁足地・入山禁止になっていて、山中岩石群の詳しい調査などは素人筋では出来ないともいわれる。

さて阿須賀神社の祭神であるが・・・、
事解男命(コトサカノオ)が主祭神で、この神は伊邪那岐命(イザナキ)、伊邪那美命(イザナミ)の夫婦神から生み出されたという神話的伝承もある。 
現在、熊野三山に付属する摂社として位置付けられているが、神倉神社同様に熊野三山とは深い繋がりが有り、それ以上に熊野三山の開祖に関係するのではないかとも言われる。
阿須賀神社は熊野川河口に鎮座している。 次に速玉大社はこのすぐ上流にあり、更に遡って中流域には本宮大社(明日、参拝予定)が鎮座する。 では那智大社は・・?、那智川上流である那智大滝の袂に在る。つまり、家都御子大神は熊野本宮大社の主祭神、熊野速玉大神は熊野速玉大社の主祭神、熊野夫須美大神は熊野那智大社の主祭神であり、何れも熊野川の中州、河口そして水源脈としてつながる那智の滝など水流を神格化したもので、「水神」を象徴している。
一般に、山の神が川を伝って里の神となるのが通例であるが、神を祀る人間は概ね川下から上流へ、神々と共に入植していくものといわれる。
熊野三神は、基本的には熊野の濃い山々と山から流れ出る豊浄な水への祈念から生じた神々であり、また眼下には太平洋が広がり太陽は海から昇り海へと沈む・・、まさに常世への接点に祀られた神々なのである。
阿須賀神社は「古事記」、「日本書紀」にも記されていて伊邪那岐、伊邪那美が熊野に参られて神々を生みおとされ祭祀したとある。 即ち、主祭神が事解男命(コトサカノオ)であることは、黄泉の国との関係を断った神、離縁された神とされ、「事」・「解」とは関係を断つ意味があるという。
因みに、伊邪那美命の墓所は三重県熊野市「花の窟神社」に残る。 花の窟神社は、この浜通り沿い凡そ20km先の鬼ヶ城の近くに在し、自然磐屋の神社になっている。

蓬莱山はあの秦の国(斉の国)の徐福伝説にまつわる山名であり、命名されたと考えられる。 徐福伝説については前述したが、徐福が本当に新宮にやってきたという根拠は伝説以外はないという。ただ、鎌倉期、中国の元王朝の支配を嫌い日本へやってきた仏僧・「無学祖元」が、この新宮で徐福を偲ぶ詩歌を残しているという。しかし、無学祖元が徐福の何を想い、何を根拠に歌を詠んだかは判らないという。
蓬莱山の遺跡が、もしかしたら徐福一行の生活跡・・?、熊野三山の開基の大元・・?、などと想像するのは面白いが、実はこれらの遺跡は弥生後期(紀元1世紀〜2世紀)以降から古墳時代に至るまでとされ、徐福一行が上陸したとされる年代は更に遡ること紀元前2世紀以前とされているのである。即ち時代のギャップは300〜400年ということになるが・・?。
いずれにしても熊野の大海と大山地にまつわる伝承は、伊邪那岐、伊邪那美の熊野参来から始まり、徐福一行の伝説、神武天皇熊野上陸などと相まって、果ては平安期の那智の補陀洛山寺における南海の観音浄土を目指した渡海上人の物語等々・・多彩である。

再び「熊野速玉大社」のことであるが・・、
大鳥居横、表参道の側に「八咫鳥神社」が鎮座している。 
ここも真紅の鳥居と社が印象的であるが・・、尤も、熊野の各社に参ると三本足のカラスの幟が目に付く。この絵を八咫烏(やたがらす)と称していて、三つの神社ではこの八咫烏が神の使いとして祀られている。

日本神話では、八咫鳥が神武東征の際に天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる鴉である。熊野三山において烏(からす)は、ミサキ神(死霊が鎮められたもの、神使)として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽神を意味する神聖の象徴と考えられ、信仰に関連するものとも考えられている。
近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のこと)には烏が描かれている。 鳥は一般に不吉の為とされているが、方向を知る能力があり未知の地へ行く道案内や遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされている。
神武天皇(磐余彦命)が熊野から大和国へ侵攻するとき、深く険しい山越えを天照大神が遣わした3本足の八咫鳥の案内で、無事大和に入ることができたという。 
「三本足」とは、又、熊野三党(宇井、鈴木、榎本:熊野地方の有力者)を表すとも云われ、智・仁・勇、また、天・地・人の意を表すとも云う。 

戦国時代には、紀伊国の雑賀党を治めた鈴木家(全国の鈴木姓の発祥とされる)の旗ともなっている。つまり、神武天皇が東征で熊野へ上陸した際、熊野三党が支援、先導したとも考えられるのである。
「八咫烏」は現代では、日本サッカー協会のシンボルマークにも用いられ、サッカー日本代表のマークとして認知されている。(協会では八咫烏であるとは表明していないが・・) 
これは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助に敬意を表し、出身地・那智勝浦町にある熊野大社の八咫烏をデザインした物であるという。 

終わりに、前にも述べたが中国では「日本の神武天皇は中国の徐福である」という伝承が根強くあるという・・。 併せて、熊野三山開基の元になったのでは・・?、と推測するのは論外とは言い難いと思うが・・?。

次回は、 「熊野川・・」

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熊野紀行(14)新宮  「水運・熊野川」


写真:熊野本宮大社旧社(大斎原・おおゆのはら)と熊野川



速玉大社のすぐ北側に、以前は「新宮川」とも称していたらしいが「熊野川」が滔々と流れる。 現在も、千年前も、万年前も川わ変わることなく廻りながら流れている。人々は、この川を遡りながら歴史を繰り返し、造ってきた。 紀伊の人々にとって熊野川は心の拠りどころであり、古里であろう。
新宮の町は古来、熊野三社参詣の大辺路、中辺路、伊勢路が集合、交差していている門前町として栄えた。 更に、新宮は近世、熊野に産する木材輸送で栄えた町だとも云われる。
紀伊の国は「紀の国」そして「木の国」といわれる。
元々、和歌山県は木の神様(五十猛命・イソタケル)が鎮座した国というので「木の国」と呼ばれていたが、奈良時代に国の名前を起こす時、二文字にして雅字を充てるという勅令が出されて「紀伊国」になったといわれる。 
和歌山市の「紀ノ川」近くに伊太祁曽神社(いたきそ・・)が紀伊国(紀州)の祖神として祀られているという。伊太祁曽神社の祭神は「五十猛命」(イタケル)であり、素盞鳴尊(スサノオ)の御子神とされる。 日本書紀によれば父神に従って高天原から大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に天降られる時、多くの樹木の種を持って来られ、そして日本全土に木の種を播き植林した。そのおかげで日本の国は緑の豊かな山々を擁し、空青く水清き森林が育成されたという。
五十猛命は木の神 木材業・林材業繁栄 緑化の祖神と言われる。

熊野の山地で伐採された吉野杉や熊野桧等の木材を筏にし、熊野川と北山川を下って新宮に運ばれ、この筏流しの歴史と密接な町域が過去に形成されていたという。
その昔、この筏流しと関連深い川原町(昭和20年代、南海大地震と水運の衰退で町は消滅)と呼ばれた町が存在した。 現在の新宮市船町(熊野速玉大社の前面)あたりの川原に存在したもので、最盛期には200軒を超える家が建っていた言われている。川原には、軒を並べるようにして宿屋、鍛冶屋、雑貨屋、米屋、銭湯、理髪店、飲食店、履物屋などの町が形成されていた。 これらの建物すべてが容易に組み立て・解体ができる構造になっていたといたというのが驚きで、 それは「川原家」(かわらや)と呼ばれ、川原町に住む人々は大雨が降り洪水の危険を察知すると即座に家を解体し、安全な高台に避難し、そして水が引くとまた川原に家を建てていたという。 
組み立てやすく、解体しやすい構造は家が流されないための知恵であったと、今の、プレハブ住宅のご先祖版であろうか・・?。

又、苔むした古道と同様に、熊野川は参詣道として山岳霊場を繋ぐ(つなぐ)熊野川の水上交通として重要な役割を果たしていたという。
かつては、熊野三山を巡拝する場合、熊野本宮大社から舟で熊野川を下り、熊野速玉大社、熊野那智大社へ向かい、再び、もと来た道を引き返し熊野川を遡上していったともいう。熊野古道の大辺路、中辺路が陸の路とすれば、こちら熊野川は熊野・水の路と呼ぶべきであろう。
熊野三山と総称される各社は元々は独自の信仰を持っていたようで、共通するのは三社の信仰の起源は自然崇拝から始まった。 特に本宮大社と速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があり、本宮大社は元は大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していた。それは、熊野川が神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀ったとも考えられる。
速玉大社は熊野川の河口付近に鎮座していることから川を神として崇敬し、本宮同様に、川の氾濫を鎮める役割を担っていたのではと・・。
速玉という名前が玉のように早い流れを意味することでも熊野川との関係が伺える。さらに速玉大社の例大祭である「御船祭」というのもある。 「熊野川」は神が往来する場として捉えられ、神聖視されてきたともいえる。

明日は、その熊野川上流の北山川の「瀞峡」で船遊びをしようと思っているが・・?、
新宮市(初代)は、1942年に実施された市町村合併で県では2番目の市として発足している。そして平成の大合併の2005年に熊野川町と合併し、新しい「新宮市」が発足している。

次回は、「紀の松島」  part8へ

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