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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(15)勝浦 「紀の松島と太地」


写真:紀の松島「らくだ島」と鯨の太地


那智勝浦まで戻り、ホテル・インしてのんびり温泉でも浸かろうと思っていた。 ところが勝浦近郊湾岸で海洋遊覧船を実施しているのを確認し、桟橋にはタイミング良く今日最終の便が出航するところあり、早速乗り込んだ。
案内書によると、勝浦港周辺に点在する「紀の松島」は周囲17kmの区間に大自然が創造した紺碧の海に浮かぶ大小の島々が点在する。中にはラクダ岩、ライオン島、洞窟の鶴島などがあり又、その昔屋島の戦いに敗れた中将・平維盛が入水(じゅすい)したと伝えられる島の一つ山成島などもあり南紀随一の景勝地である・・と。
出航してからすぐに「勝浦魚市場」の埠頭が眺められる、桟橋からは余りハッキリ見えなかったが、さすがに遠洋マグロの水揚げ日本一波止場だけに巨大な市場である。
勝浦湾を塞ぐように浮かぶ中ノ島、コンモリした小山の島であるが海辺に沿って巨大ホテルが取り巻いている。 そう、この島は全山がこのホテル・「中ノ島ホテル」の敷地だという。 海辺の露天風呂から若き女性・・?が身を隠しながら手を振っている。遊歩道の山上には、近頃「空海の湯」(足湯)がオープンしたという、空海はクウカイではなくソラミと読むらしい、文字通り大空の展望絶佳の地である。
この島は人口50人というが、ホテルの従業員達ではないですか・・?。

桟橋の右手に我等がホテル「H・浦島」が海上に浮く様に広がっている。良く見ると山腹に沿って(実は長―いエスカレータである)更に山上のホテル館(山上館)まで繋ながっている。船が動き出して湾外へ出ると、海の香りと潮風が顔に当たり、時折波しぶきが飛んでくる。先程までの暑さを感じていたが、まるで嘘のように涼しさと爽快感である。 船も縦横左右に揺れる様になった、船好きな小生にとっては痛快である。
「ホテル浦島」が居座る緑に囲まれた狼煙半島の先端は断崖絶壁で切れ落ちてる、その先端は鶴島、乙島に連なっている。 半島の裏側に至って我がホテルの名物温泉「忘帰洞」が見え出した。 周辺山肌は累々とした岩場になっていて、その隙間にできた海食洞窟であることがよく判る、入浴客が前向きで手を振っている。 今日は海は荒れ気味なので飛沫が飛び散り「忘帰洞」の入浴は面白そうである、同ホテルの日の出館も外洋に面して建っている、通路は山中を貫いているのだろう・・?。

船は反転して太地方面に向う・・、
沖合いに大小点々とした島が在る、「山成島」といって平氏・平維盛(たいらのこれもり)が入水したとされる群島である。 
平維盛は、平安時代末期の武将、平清盛の嫡孫で平重盛の嫡男である。 その学識と端整な容姿から「光源氏の再来」と称されていたという。 源平合戦で頼朝、義経らと合戦し、1183年(寿永2年)倶利伽羅峠の戦いでは源義仲に敗れて、平家都落ちといわれる西へ走り、1184年(寿永3年)屋島の戦いで源氏と対陣中、密かに逃亡したとされている。 後、高野山に入り、まもなく那智の沖の「山成島」で入水自殺したといわれる。

次に船は湾の南西側に突き出た岬の先端に近づいた。
船内アナウンスが「らくだ島」、「越の湯」と紹介していた。 確かに背中にコブが有って似たはいるが、鮮明ではない。 その向こうが気になる所である、平らな岩場に柵が施してあり、其処に露天風呂が有るようだ、混浴なのであろう、水着を着けた男女の数人のグループが入浴を楽しんでいる。 
船が真近まで行くと、やはり女性陣がここでも手を振ってくれている。 先程もそうだが、半裸のうら若き女性が惜しげもなく曝け出して挨拶してくれるのは男性としては大歓迎であるが、やはり最近は女性の方が何かと積極的な面が伺える。
ここの露天風呂は、老舗旅館「越之湯」が所有していた温泉で、昭和天皇も泊まったという名旅館であったが何故か2002年に倒産してしまったという。そのため現在は、釣り船業者が渡船を使用しながら管理しているといい、浴場は渡し船でなければ行けない場所でもあるとか・・。 
湯船から見ると、ラクダの形をした奇岩が正面に横たわり背後には茫洋とした海が広がる。 紀の松島の大パノラマを眺めながらの入湯、人里離れたこんな場所に湯煙の上がる特等席があったのである。
狼煙半島の洞穴周辺や海食洞穴には180ヶ所もの温泉が湧きだしていて、この越の湯・「らくだの湯」もその内の一つであるとという。

暫くして「太地」(たじ)の埠頭へ着岸し、一旦上陸する。
目の前に巨大な「くじらの博物館」が現れた・・、太地町の捕鯨400年の歴史と技術を後世に伝えることを目的として開館したという。 
大きな鯨の絵が描かれた建物にはビックリしたが、様々なクジラの骨格標本や、鯨の生態、捕鯨に関する資料1000点以上が展示されているという。時間があればユックリ見学したいところであるが・・・!、くじら浜公園には他に、捕鯨船や海洋水族館、ラッコ館、熱帯植物園など文化施設も集まる。

子供の頃より普通に慣れて食していた鯨の肉が途絶えて久しい。 太地の歴史は、鯨なしには語れないといわれ、太地は日本における捕鯨発祥の地だと言われている。
日本人は縄文期の頃より鯨類を利用していたことは考古学的にも判っているが、組織的な漁業活動として史実に登場してくるのは近世になってのことである。 徳川の世になって熊野水軍として戦いがなくなり、そこで新規参入し、乗り出したのが捕鯨であった。
鎌倉期からこの地方の名族として知られた「和田頼元」(わだよりもと)が、組織的な捕鯨法を開発したといわれる。捕獲は網取式捕鯨法といわれるもので、網に鯨を囲い込み、手投げ銛(もり)で仕留めるものだが、小舟に乗った漁民が銛を片手に大きな鯨に立ち向かうのは命懸けだった。
捕鯨から解体処理までの一連の作業は数百人の人手を要する大仕事で、多くの人がこの仕事で暮らし、紀州藩も捕鯨を奨励した。
和田家は幕府より「太地」の姓をいただき、それが地名の由来となったとされている。
ところが、1878年(明治11年)に捕鯨中の事故により100名以上の死者を出すという大惨事が起こった。このため鯨方も一時衰退してしまうが、太地が再び捕鯨の町となるのは日露戦争後のことであった。近代的な大資本による遠洋捕鯨の基地として多くの船で賑わい、鯨体の処理場や鯨を缶詰にする工場もできたため、太地は再び捕鯨に依存するようになったのである。 
ところが幕末には米国の捕鯨船が日本近海に来航し、北太平洋の鯨を取り尽くして太地の漁獲も激減してしまった。米国捕鯨船の目的は鯨油であり、肉は廃棄するという不経済なものだった。 それから200年たった現在、日本の捕鯨に対する風当たりが強くなりつつあった(捕鯨問題)、米国が鯨保護運動の先頭に立って日本を目の敵にするようになったのである。 結果、1988年(昭和63年)には国際捕鯨委員会の取り決めに従い、ついに太地でも商業捕鯨が中断されるに至ったのである。 これはまったく歴史の皮肉というべきだろう。
近年、隣町の勝浦がマグロ漁で日本一の盛況を呈している中、太地は鯨の町とはいいながらその賑わいは過去のものとなり、今は博物的意味合いで何とか息を繋いでいるという。

ところで話はチョット反れるが・・、
日本有数のマグロ水揚げ基地である勝浦町であるが、その勝浦漁協市場で今季(2005年)最大の300キロ以上のクロマグロが水揚げされ、1kg当たり2500円前後で取引されたという。
高級トロの材料として人気が高いクロマグロやミナミマグロであるが、現実は、資源状態が世界的な悪化の兆しがみえはじめ、資源水準は極めて低い傾向になりつつあるという。 日本が世界で最も多くを捕っている太平洋のクロマグロも同様で、低下傾向に歯止めがかからず、乱獲が進んでいる可能性が高いと。 更にクロマグロ,ミナミマグロ,メバチは日本人が大部分関与しているといい、世界中のどの海で獲られ、どこの港へ水揚げされても結局は大部分が日本へ輸入され消費されているという。即ち、「日本へ輸出すれば儲かるから」からマグロの漁獲量を増やすという構図もある。
そのマグロが食べれなくなる・・・??。 
日本人に馴染み深いマグロだが、日本だけでなく世界各国で削減され、漁獲割り当て量が段階的に削減されていて、それを「大西洋マグロ類保存国際委員会」(ICCAT)とやらが目を光らせているらしい。 近年その生息数が激減していると言われるマグロであるが・・、鯨が食卓から消えてから久しいが、その太地町とマグロで隆盛を誇る勝浦町の対比が将来を暗示しているようにも思われるが、そうでない事を祈りたい。

太地町は周辺の町村が合併を繰り返す中、明治22年に太地村と森浦村が合併した当時から、そのまま残っているため面積が和歌山県で一番小さく、その全域が海と那智勝浦町に囲まれている。 
こんな地理的条件で今般の「平成の大合併」の最中でも、那智勝浦町と太地町の合併の情報は無いようである。

次回は、ホテル浦島・・、

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熊野紀行(16)南紀勝浦 「ホテル浦島」


資料概略図:ホテル浦島全容と温泉


狼煙半島のほぼ全域を占める「ホテル浦島」・・、

夕闇迫る頃、勝浦温泉の「ホテル浦島」に戻った。そして再び「ホテル浦島」のことであるが・・、勝浦温泉は白浜と並んで南紀を代表する温泉であろう。勝浦温泉は和歌山でも一番の源泉数を持つといい、源数175本(町所有8本)を数える。因みに和歌山県下の総本数は468本であるとのこと。 
前にも記したが、勝浦温泉は大正時代に発見された比較的新しい温泉である。現在は、南紀白浜温泉と並ぶ和歌山県を代表する温泉地であり、世界遺産に登録された那智山や那智滝、熊野三山詣での拠点となっている。この勝浦温泉が白浜温泉並みにもっと早く発見されていたら、温泉地は別な様相を呈していたかもしれない。
岬の岩影や島などいたるところに湯が湧き出し、源泉ごとに泉質が異なるというユニークな温泉でもある。島の周りには大型ホテルや旅館が点在し、港から宿まで客を送迎ボートで送り迎えする変り種のホテルもある。殆どの宿が自家源泉を持ち、個性ある温泉が揃っているという。 趣向を凝らした露天風呂で、「紀の松島」や果してなく続く水平線を眺めながらの湯浴みは格別で、一日の疲れが癒されていく。
勝浦湾は、夜ともなると黒くシルエットになった島影を背景に、湖のように波静かな湾内を赤や青の灯を点した船が行きかう様が美景である。 湾内の隠やかな風景とは対照的に、先ほど遊覧した湾の外側は熊野灘の荒波に洗われる洞窟や絶壁の続く男性的な景観で、ホテルや旅館などもこの豪快な海景を楽しめる場所にも建っており、部屋の窓からの風景は迫力そのものである。

勝浦湾を抱く狼煙半島のほぼ全域を占める「ホテル浦島」であるが、湾内に左右に広がる「本館」や「なぎさ館」等の他に、山上の「山上館」や外海に面した「日の出館」などが在り、看板の「忘帰洞」の他に各建物ごとの五ヶ所の温泉浴場を持っている。 各建物(各温泉)へは山上へのエスカレーター(スカイウオーカー)の他に、連絡用のトンネル、エレベーターなども揃っている。
昨日も紹介したが、このホテルの温泉の名物である「忘帰洞」を今日も覗くことした。 
熊野灘に向って大きく口を開いた景観は相変わらずだが、本日も波浪が高そうなので、その様子を探る目的もあったのである。 やはりそうだった・・!、波頭が岩場に当たって飛沫となって、湯船の中まで飛び込んでくるのである、イヤー、実に爽快豪快・・!。 
源泉は穴の横から温泉が湧き出しており、香りある硫黄臭もしている。
又、同様に昨日入浴したが本館の「滝の湯」(男湯:女湯はハマユウの湯)は本館1階にある内湯で、大きな岩から流れ落ちるお湯が浴槽に注がれている、コーナー階段の上に壷湯もあり、小さな露天風呂もついている。

就寝前には「玄武洞」、「磯の湯」に浸かる事にした。
玄武洞は忘帰洞と双璧をなす洞窟風呂で、玄武洞へと続く地下通路を歩いているだけでもう硫黄の匂いと熱気がむんむんしてくる。 海に開けた洞窟の口は忘帰洞より小規模であるが、浴槽は内側に面した広いスペースのと海に面したものと二つある。海に面した浴槽は温めで気持ちがいいが、こちらも波が高く海に吸い込まれそうで恐怖感が漂う。耳を凝らすとゴウゴウと波浪音が聞こえてきて、大自然の偉大さに圧倒される。 
磯の湯は、玄武洞に続く地下通路の途中にある内湯で、特徴的なのが、浴槽が透明のものと白濁しているものの二つ在り、透明のほうは湯温が高く、白濁のほうは温めになっている。 H・浦島の源泉は、どこもが成分の濃い硫黄泉であるが、ここ磯の湯が一番濃いように感じる。 
そして、次の朝目覚めに浸かったのが6ヶ所中の最後の「なぎさ湯」であった。 「なぎさ館」の端っこに位置する温泉で、穏やかな勝浦湾を望ながら入れる露天風呂である。 ここから観る勝浦湾の景感もいい、早朝より往来する船の出入りを見ながらの入浴もまた乙なもので詩情を醸す。 ここの湯は、他に桶の浴槽が4つと四角い浴槽一つがあった。

因みに、同ホテルの敷地内源泉数は9本あり、各温泉の泉質は硫黄泉、硫化水素泉、単純泉、塩化物泉などであり、効能はリウマチ、神経痛、胃腸病、貧血症、皮膚病、婦人病等などであるらしい。 尚、泉温48度 ph7.7 毎分358L。
H・浦島には館ごとにそれぞれ浴槽があり、スタンプラリーで全館、全湯制覇すれば        景品がもらえるようになっている。因みに、景品は当館の「絵はがき」であった。

今朝も、好天の中の目覚めで気分も快調である。
連泊の後、今日は旅支度を整え来館記念の写真を撮って出発である。 
今日の目的地は概ね、中辺路、本宮大社、それに熊野川・瀞峡遊覧等・・、泊まりは「湯の峰温泉」としている。

次回は、 熊野川・「瀞峡」   part9へ

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