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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(17)熊野川 「瀞峡」


写真:「瀞峡」・瀞八丁付近(特別名勝・天然記念物)と亀岩


熊野川・瀞峡を和船で遊ぶ・・、

昨日訪れた新宮の地、新宮高校のある橋本という交差点を左折し、国道168号線を内陸へ向って北上する。 熊野の清流をすぐ横に見ながらの快適なドライブである。 
道の駅「瀞峡街道熊野川」があり車を寄せてみたけど、駐車スペースは小さくなんとなく沈気である。看板に「アイドリング、花火、宿泊禁止」とあり、宿泊禁止はマイカー旅行者には冷たい感じがしないでもない。 個人で営むんでいるのだろう、田舎のドライブインといった風で入るのには気が引けた・・?、そのまま直ぐに出立した。
熊野川沿いから、間もなく熊野川町に入ったらしい。 
チョット賑やかな町並み集落を過ぎると、「古志」という地域に来ると急に賑やかになり、 道路沿いに華やかに瀞峡観光巡りの案内、看板が目立つ。 ここは、ウオータージェット船の船着場乗り場で、ボチボチ観光バスも停まっていた。 聞くところ、この先の上流部に「和船」の乗り場(玉置口)があって、どうもユックリ、のんびり観光するには其方のほうがいいらしい、途中、R168とR169、本宮と玉置口への分れ道があり熊野川にかかる宮井大橋を渡る。
この辺りは、熊野の大河が大きく二つに分岐してて、通称、右方が「北山川」で北山村へ、左方が「十津川」となって十津川村へ遡っている。瀞峡の本命は北山川である。この北山川は和歌山・奈良・三重の3県にまたがって流れている。 峡と言うだけあって山域、山腹が狭まり川筋は、その間をぬって激しく蛇行を繰り返しながら流れる。
それにしても国道と言いながら道の細さには参る・、殆ど両一車線のみの上下曲折の道路である、びくびくしながらも、案内板に従ってどうにか辿り着いた。 
地元の農家の方が営んでいるらしく、「はるや」という和船乗場の小店兼受付所があった。船主と商談している最中、たまたま同様の夫婦連れと同船した、費用は4人で5000円はまずまずであろう。 ウオータージェットは一人3350円であるから、一応納得である。

川の流れ、山の香り、そして耳をすませば、洞穴の奥から滝の流れる音を聴き取ることもできる。 川面は、急峻な山が迫り、迫力ある自然でありながらも、どこか上品な風情を感じられるのは、瀞(とろ)であるゆえか。 「瀞」というのは、「河水が深くて流れがユッタリと静かなところ」という意味である。秩父にも「長瀞」という地名があるが、「瀞八丁」を地元の人は「どろはっちょう」と濁って呼んでいるようである。因みに、川、特に渓谷の流れは多々表情がある。これらの流れには、滝(たき)、瀞(とろ)、釜(かま)、滑(なめ)、瀬(せ)、淵(ふち)、等と流れの地形や表情によって、いろんな名称が付いている。瀞の場は、大抵の場合急峻な岩場が競り合っている所で、流水が深く淀んでいる所であり、川幅も比較的広く、ゆったりと流れているところである。そんな中で、瀞峡は、岩塊や断崖が多くの表情を表し、自然の造形美を造っているのである。

「和船」はウオータージェットと違って、完全開放型で小さな推進エンジンを付けた、手漕ぎのボートを一寸大きくしたような6人乗りぐらいの小型船である。 昔は同様の大きさで参詣人達、たまには貴人を載せてこの川を往来したのであり、瀞ばかりでは無く、場所によっては波立つ急流をも上下したのであろう・・。
船頭の洒落た語り口、案内で同船の4人はスッカリ打ち解けて談笑もしきりである。 川面を滑るように和船の雰囲気は、それだけでも風流であり風雅である。しかも、これだけの大自然の中にスッポリ納まってしまうと、世相の憂さや、汚(けが)された身も心も川の水と一緒に洗われ流されて、自然と一体となった清爽味を感じるのである。
ところで瀞峡は流域によって下瀞、上瀞そして奥瀞に、其々上流に向かって区分呼称されているとも言う。 「下瀞」は、我等が和船の乗り場・玉置口から瀞ホテル付近の十津川村田戸間を指し、「上瀞」は田戸から上流部で北川峡ともいい、紀和町小松辺りを指している。そしてその奥、北山村のほぼ全域で七味ダム辺りまでを「奥瀞」と称している。最近では奥瀞の七色峡・筏下りが人気を呼んでいるという。

序に、小さな「北山村」のことであるが・・、
地図を良く観ると判るが行政区分は和歌山県に属しながら周りを奈良県と三重県に囲まれており、所謂、領域が飛地になっている。このような村は、日本の市町村単位では唯一の自治体であるという。しかも平成の大合併で村が消滅するなか、和歌山県で唯一の村となっている。
北山村はその村域の大部分が山林地帯であり、古来よりその木材を切り出して北山川に流し、下流の新宮の商人がそれを売さばいて村の人々の暮らしが成り立っていた。つまり新宮との結びつきが強く、明治期の廃藩置県で「新宮」が和歌山県に入ると、この村も新宮との結びつきの強いゆえに和歌山に入ることを望み、これが叶った為に「飛び地村」が出来たという。 村の集落は、北山川沿いの南端部分に小さく点在するのみであったが、七色ダムの建設にともない、更に多くの集落が湖底に沈んだという。
明治中期に小集落の北山村が出来て以来この村に合併でなどは一切無く、「飛地」故に現在でも人口が少なくとも一村を維持してきている。 近隣の熊野川町も和歌山県の飛地の町であったが、2005年の合併により新宮市の一部と成っている。又、村の北側に下北川、上北川の両村があるが、何れも奈良県に属している。

さて、我等が向かっている下瀞は「瀞八丁」とも呼ばれ、瀞峡では最も景勝の地と云われるらしい。摂理の綺麗な両岸は岩質が硬いため浸食に強く、古代から変わらぬ姿を示しているといい、崖の高さは約50m、水深も16〜20mに及び、川幅も60〜80mにもなる地域であるという。進むに従って特色ある岩塊が出現し夫婦岩、亀岩、ライオン岩と賑やかである。中天門というのは「瀞八丁」でのメインで、河両岸に大絶壁が連なる地域である。その中に「すべり岩」というのが有って、その昔地震が起きたときに滑り落ちたという謂れがあるとか。
間もなく左手に断崖の上に聳える木造の吊り橋と木造の建物が見えてきた、「瀞ホテル」といって断崖の上に危なっかしく、辛うじて建っているようである。 本館が奈良県十津川村、吊橋を渡った川向こうの別館が和歌山県北山村と、地域が全く異なったところに建つ変わった旅荘でもある。(現在は休業中らしい・・?)
この辺りで和船は向きを変え、引き返すことに成る。概ね、40分位の遊覧であったろうか。

次回は、「熊野本宮大社」

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熊野紀行(18)本宮 「熊野本宮大社」


写真:本宮大社、八咫烏と参道鳥居、本宮旧社(大斎原)の大鳥居


熊野信仰の中心、「熊野本宮大社」・・、

難所の国道169から宮井大橋を右折して本宮大社方面に向う。 山々が迫っている、その間をぬうように熊野川が悠々と流れる、その熊野川と付きつ離れつしながら進む。
小生、前回、分岐する二つの川は「北山川」と「十津川」と記したが、この辺り和歌山県内では熊野川と言い、R168が北方の奈良県の十津川村へ至って十津川と称するのが正しいらしい。 
大塔山に源を発する大きな支流の大塔川を渡る。 
この先は、有名な川湯温泉や渡瀬温泉があり、更には、今夜投宿する「湯峰温泉」が点在する。 特に、川湯温泉は熊野川の支流大塔川の川原を掘ると温泉が湧き出すという全国でも珍しい温泉で、体が浸かる大きさまで掘れば自分だけの露天風呂が出来上がるという。 冬期間の毎年11月から翌年2月にかけて川を堰き止め、広大な露天風呂が出現する。 仙人風呂(千人風呂)と呼ばれ、野趣あふれる冬の風物詩として親しまれている。
熊野は、「木の国」とはよく言ったもので、左を見ても右を見ても見事に植林された杉や桧の大木が山の斜面に天を貫くように連なっている。

やがて国道は、再び、熊野川に突き当たる。 ここからは、熊野川の河岸に築かれた国道168号線を北に向かって走ることになる。 熊野川も、かなり上流域なのに意外と河原の幅が広い。 熊野の山野を潤しているこの母なる川も今は渇水期なのか、夥しい川石がまるで海岸の砂浜のように続いている。車は、やがて本宮の市街地に入り、支流・音無川の畔に鎮座する熊野本宮大社の鳥居の前に到着した。傍らで、巨大な八咫烏の幟(のぼり)がはためく大鳥居の前に立ち、木製の鳥居が天を指して、そこにはやはり「熊野大権現」と記してある。この社(やしろ)が熊野信仰の中心の所謂、「熊野本宮大社」である。 熊野詣の総ての参詣路は、この神社を目指している。 
ここから熊野川を下って速玉大社、那智大社へと巡るのが、熊野詣での昔からのコースである。 大鳥居の奥に年輪の就いた杉並木の石段が続ていて、左右にびっしりと「熊野大権現」と「八咫烏」の図柄の旗群が参詣者を歓迎してるようである。 石段を登り切ると参道の向こうに神門が見える。 神門から神域に一歩神域に足を踏み入れると、正面にパノラマのように社殿が広がる。 先ずは拝殿に額ずいて参拝を致す。
社殿は古色木目調で、那智や速玉の社殿の朱色の煌びやかさに比して、いかに落ち着いた風格を醸し出している。小生の知るところ、「出雲大社」を彷彿させる。

祭殿は三段に施してあり、奥まった位置の「上四社」の主殿・第三殿には家津美御子大神(ケツミミコ)、第一殿に伊邪那美大神(イザナミ)、第二殿に伊邪那岐大神(イザナギ)、第四殿に天照皇大神(アマテラス)などの祭神を祀る。
家津美御子大神(ケツミミコ)は素盞鳴尊(スサノオ)の別名で出雲の国の太祖にあたり、大国主(オオクニヌシ:スサノオの子、又は孫)を同時に授かる、出雲の祖神でもある。 スサノオはイザナギとイザナミの間に産まれたとされ、三貴神・三兄弟神(アマテラス、ツキヨミ、スサノオ)の末子に当たる。 因みに、、産まれた時アマテラスには天を、ツクヨミには夜を、スサノヲには海(水)を支配するように言いつけたという。だが、スサノヲは高天原では荒ぶる神として嫌われ、姉のアマテラスに追放されて葦原中国(アシハラノナカツクニ:日本)の出雲に降りたとされる。 
出雲地方には出雲一宮である「出雲大社」」があるが、出雲第一の宮といわれる熊野大社(島根県八雲村熊野)もあり、一説によると、この出雲・熊野大社が出雲の国から紀伊の国・熊野地方に勧請されて紀伊・熊野本宮になったとも云われる。

序ながら、出雲地方における熊野大社の置位については・・、
「出雲国風土記」によると『熊野山、郡家正南一十八里なり、いわゆる熊野大社坐す』とあることから、遥か大昔は八雲村の熊野山(今の天狗山)にあったことになる。
熊野大社は、食物の生産を見守る強い信仰のあった神様と言われ、熊野山に祭られたのは、古代出雲文化の中心であった意宇平野(出雲国内でも一等の古墳地帯、古代の政治・文化の中心地で国庁・国分寺が所在した)の水田をうるおす水の源・「水の神」として祀られたという。そして、出雲大社の大国主命は、この食物の生産を見守る熊野大社(須戔嗚尊)を戴いて国造りをされる神様として祀られた。このことは、出雲国造を相続するときは、熊野大社で火継式が行われたと伝えられることからも知ることができる。つまり、熊野大社は出雲大社の親神であり、それは「水の神」でもあった。 更に、紀伊地方の「熊野」という呼称は、八雲村の熊野から伝わって来たことにもなる。

戻って「熊野本宮大社」の社殿のことである・・、
次に中間の「中四社」の各殿にはオシホミ、ニニギ、ヒコホホデミ、ウカヤフキアエズなどの天津天孫の錚錚(そうそう)たる神々が祀られている。 手前の「下四社」・各殿の神々と合わせて全十二社神を祀っている。こちらの十二神も熊野三神に概ね共通する神々である。
熊野本宮大社は、先に訪れた熊野速玉大社、熊野那智大社と並ぶ熊野三山の主神で全国に数千もある熊野神社の総本宮である。 古色蒼然とした檜皮葺きの社殿群は、概ね重要文化財に指定されている建造物でもある。
境内の隅に「都道府県別、熊野神社全国分布図」とした掲示板がが有った。千葉、福島、愛知が其々200社以上あってビック3であり、全国合わせて3831社とあった。

ころで本社殿は明治24年に移建された社宮だと云う・・、 
本宮大社の社殿は当初から現在地にあったのではなく、元の社殿は熊野川とその支流の合流する「中州」にあったとされる。 明治22年(1889)の大洪水で倒壊したため、神像とともにこの地に移され、現在に至っているとのことらしい。 旧境内は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、現在の社地の八倍の広さだったという。
大洪水は、大斎原に鎮座していた上、中、下各四社のうち、上四社を除くすべての社殿を一瞬のうちに押し流してしまい、そのため上四社のみを明治24年に現在の社地に遷し、その他の流された社殿は仮に石祠を造営して合祀してあるという。 

旧大社は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点の中洲にあり、江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉したという。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできなかった。その後、宝前に額づき、あらためて参拝奉幣するのが作法であったという。
出雲の親神から勧請したとされる熊野本宮社は、元はといえば「水の神」であった。旧社地の河原にあり、水を鎮める神であったが、その水に流されてしまったのは神の皮肉とでも言うべきか・・?。因みに、熊野三山は本宮は元より、新宮は熊野川河口、那智は那智の滝と、何れも水には縁がある。つまり、水神が本来の姿のようである・・?。
旧境内の田園の中に、近年(平成11年)造営された大鳥居が天を突いている。

次回は、 「熊野参詣」について・・、    part10へ

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