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【紀伊山地の霊場と参詣道】

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熊野紀行(11)新宮 「徐福伝説」



写真:新宮市「徐福公園・中華楼門と徐福像」


更に国道を北上し、宇久井の浜を右に見ながら新宮へ向う。市街地から県境であり、熊野川を渡る直前の左手奥に三山の一宮・「新宮速玉大社」が鎮座している。
その前に・・、
お隣の県(とは言っても、目の前の熊野川の向側であるが・・)・三重県出身の『兄弟舟』で知られる演歌歌手・鳥羽一朗が、演歌『徐福夢男・虹の架け橋』を歌っている。 余りヒットしなかったらしく、正直小生も知らない歌だが・・!。
実は、この熊野灘に関わりの有る「新宮」のことを唄った歌なのである。

徐福夢男・虹の架け橋』 唄・鳥場一朗  詞・星野哲郎
まぼろしの まぼろしの        徐福は秦の 夢男
不老長寿の 薬を求め        夢こそは 夢こそは
蓬莱めざして 船出した       若さ支える 天台烏薬
三千人の 大ロマン          三国無双は 那智の滝
一つに束ね 舵おとる         大空駈ける 竜に似た
徐福 徐福               姿をいつも 仰ぐたび
                       徐福 徐福


新宮駅から東口すぐ、中国風の楼門が一際鮮やかに「徐福公園」がある。 
新宮市内の観光名所の一つで、境内は楠木の巨木と天台烏薬(※ てんだいうやく)に囲まれ、徐福の墓や徐福像、不老の池、徐福が亡くなった時殉死したと伝えられている七人の重臣達の墓が建立されている。

遥か昔・紀元前の秦の時代の中国、始皇帝の家臣「徐福」は皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて倭の国・熊野に渡来したと「徐福伝説」は伝えてる。 2千年以上も前のことで日本はまだ神代の時代(実質は弥生時代)の事であるが既に、中国や台湾をはじめとした多種多様な異文化との交流などが既に行われていたことは知られている。
徐福は、秦に国を滅ぼされた斉国(※中国の戦国時代の七雄とよばれた国の一つ)の人だった。彼は蓬莱島(山東半島の東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が住む山と考えられていた)に行って長生不老の仙薬を求めて差し上げますと秦の始皇帝を騙し、3000人の人民と五穀百工(各種工業技術者)を率いて、東方の日本に向かって出航したといわれている。 これは、今で言う一種の集団亡命である・・?。
中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫達は「秦」(はた)と称した・・、とする徐福にまつわる伝説が日本各地に存在する。元々徐福は、不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなく、万里の長城の建設で多くの人民を苦しめる始皇帝の政治に不満を抱き、東方の島へ新たな地への脱出を考えていたという。 徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれない。
徐福は中国を出るとき稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われる。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされ、殆ど同時期に銅・鉄器製品や製法が伝わったとされる。  
これらは、実は徐福が伝えたのではないかと想像も出来るのであり、徐福が日本の国造りに深く関わる人物にも見えてくるのである。

日本と中国は、文化の交流だけではなく血でつながり骨肉を分かちあった民族の交流もあったことになる。 さらに日本の文化の根底を成すものが、徐福の渡来のよってもたらされ、徐福その人とその同伴の童男童女の血がわれわれの体の中にながれていることにもなる。
数多い伝説地の中で佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などに痕跡が残されている云われる。 現実的に想像しても、数千人の人々が一気に一点に上陸することは不可能であり、各々の責任者の下に各地に分散して上陸したのではないかとも思われる。それが上記の地域だったのではないか・・?。

中国においては徐福=神武天皇とする説もあって興味深い。
徐福が神武天皇であるという説は、真偽はともかく歴史的ロマンがあって面白い・・?、天皇が東征の折、この熊野地区に上陸して大和に都を開いたとされているが、尤も、こちらも伝説の域を出ないようだが・・。
徐福の国(斉の国」から伝わった日本で御馴染みの諺がある・・最近は余り使われなくなったようが、「恙無き・・」(つつがなき)という言葉である。 

唱歌『 故郷 』の一節、二番に・・

如何に在(い)ます父母  
恙(つつが)なしや友がき  
雨に風につけても  
思い出ずる故郷 


・・・である。

斉の国の王が、北方の「趙の国」に人質にとられている皇后が無事かどうか使者を遣わしてその安否を確かめさせた。 到着後、皇后は直に使者に尋ねた「歳亦た恙無きや、民亦た恙無きや、王亦た恙無きや」(斉国の穀物は無事に収穫できたか? 国民は無事に過ごしているか? また王はお変わりないか?)・・と。 すると使者は皇后に「その質問はけしからんのでは・・?」と問う。 何故ならば斉王の無事をこそ真っ先に確認すべきで、それを最後に尋ねるとはおかしいのではと・・?。 
しかし、皇后が使者を嗜めて(たしなめて)言うには「穀物の収穫(歳:一般に年齢や時間のことであるが、収穫をも意味している)あっての民、民あっての王である。 本(もと)を差し置いて末(すえ)を問うことこそこそ間違った質問ではなかろうか」と・・、つまり「本末転倒」をいさめたという。
「恙」は、「憂」(うれい)という意味であり、「恙」が「ツツガ虫」と関連付けられた俗説で、室町時代の辞書に「恙は人を嚼(か)む虫なり。 善き人の心を嚼み、人、毎(つね)に之に患苦す」と記してある。

※ 天台烏薬(てんだいうやく):クスノキ科の常緑低木、幹・枝は細い、雌雄異株、4月ごろ、淡黄色の小花を多数つけ、実は楕円形。根は連球状で香気があり、漢方で胃健薬、鎮痛薬に用いられるという。

次回は、 「神倉神社と熊野速玉大社」

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熊野紀行(12)新宮 「神倉神社と速玉大社」



写真:神倉神社(ごとびき岩)と速玉大社(拝殿、鈴門、本殿)


前に紹介した鳥羽一朗の演歌の『徐福夢男・虹の架け橋』の三番目の一節に
・・神倉建てて 幸を呼ぶ・・」という歌詞がある。
国道42が新宮市内に入った頃、左手に緑の山が見えてくる「千穂ヶ峰」(神倉山)である。 南端に500段の急峻な石段を登ると大きな「ごとびき岩」という巨大な岩塊がそそり立っていて、この絶壁を成すような大岩が古くからの御神体とされ、古代の神の依代、磐座(いわくら)とされている。 この神社を「神倉神社」という。 
祭神は高倉下命(タカクラジノミコト)で、命は高天原に天孫降臨された瓊々杵尊(ニニギ)の兄で、早くから熊野を統治せられ後に熊野三党、三山祀官の祖(八咫烏・ヤタガラスの元・・?)となったとされる神である。神武天皇がこの地に上陸した伝説があり、八咫烏(ヤタガラス)の案内でこの地から奈良に攻め上ったといわれる。 
神倉山は古代から永く熊野の祭礼場として神聖視されてきた霊山であり、特に源頼朝が寄進したという自然石を積み重ねた「鎌倉積み」という急斜面の石段は、参拝人が登り降りするのに相当のの難儀を強いられるという。 この急な石段で行われる例大祭が「お燈明祭り」といわれる大祭で、例年2月6日に行われる夜の壮観な火祭りでも知られる。 
1800年以上の伝統をもち、白装束に荒縄を巻いた2000人前後の「上り子」といわれる神子達は御神火を授かっ た松明をかざして、このとんでもない不揃いで急な石段を一斉に駆け下りるという、誠に壮観な炎の祭典が繰り広げられる。 

神倉神社は、今は熊野権現・「熊野速玉大社」の摂社であり、熊野三山の主神降臨の霊地として熊野信仰の根本といわれる霊所である。この神倉山の磐座に祀られていた「神」は何時の頃からか北側の山麓、熊野川がS字の曲がりくねる地に遷宮され祀られるようになったといわれる、それが現在の「熊野速玉大社」である。 神倉山にあった神倉神社を元宮に対して、現在の社殿の「熊野速玉大社」を「新宮」と呼ぶようになり、これが新宮市の起こりでもある。
その「熊野速玉大社」は、神倉神社から北方1kmの熊野川に面したところ、国道42号線の速玉大社前という信号から既に宮参道になっている。正面、深緑の木立の手前に真紅の大鳥居が天を指し、「下馬橋」という弧橋が前に控え、両サイドに熊野大権現、熊野速玉大社と刻した石柱が立つ。
参拝記念の撮影に適したスポットであろう。

右手参道横の駐車場に車を止め、参道へ出るとすぐに「梛(ナギ)の木」(亜熱帯性のマキ科の常緑高木)という樹齢千年の大木が天を貫いていて、余りの大きさに圧倒される。 周囲6m、樹高20メートルで高さ日本一の「ナギ」の木は真冬でも濃い緑を絶やさず、夏には大きな木陰をつくる。平安末期の武将・平重盛が植えたと伝えられるが、実際はもっと古く樹齢は千年以上といわれる。 
強い生命力から平家、その他の武将の信仰も厚かったという、国の天然記念物である。
これよりすぐに重装な神門を潜ると煌びやかな大社殿が現れた。赤と白壁を基調とした社殿群が左右横幅いっぱいに鎮座している。先ず、左側の拝殿に額ずいて拝礼・参拝を致す。 右のほうに真紅の社殿をバックに写真撮影用の長椅子が置かれてあったので両人で記念の撮影である、時に平成14年9月7日と熊野速玉大社と丁寧に看板まで設えてあった。
立派な神門をくぐると目にも鮮やかで煌びやかな各社殿が横一列に配されている。尤も、正面に「鈴門」というのが構えていて、御霊を祀る各種本殿や主要社殿は直接的には伺えないが、左方に一段と華麗な拝殿が鎮座していて我等参拝者はここで額ずくことになる。 

拝殿の後方の其々の社殿は、第一殿(結宮)で熊野夫須美大(クマノフスミ:伊弉冉尊・イザナミ)、第二殿(主本殿:速玉宮)には熊野速玉大神(ハヤタマ:伊弉諾尊・イザナギ)、鈴門の後方に第三殿(証誠殿)には家津御美子大神(ケツミコ)、第四殿(若宮)・天照皇大神(アマテラス)と(神倉宮)高倉大命等が祀られ、他の社殿には天忍穂耳命(アメノオシホミミ)、瓊々杵命(ニニギ)、彦火々出見命(ヒコホホデミ)、鵜茅草葺不合命(ウガヤフキアエズ)といった九州地方へ降臨した主神々が合わせて、那智大社と同様に「十二神」祀られている。
那智大社が主神・伊弉冉尊(イザナミ)に対して、速玉神社は主神に伊弉諾尊(イザナギ)を祀り、両者は夫婦神でもある。
そしてその夫婦神から生まれ出たのが天照皇大神(アマテラス)で、皇祖・伊勢神宮のかみであり、その弟が家津御子大神(ケツミコノオオカミ)こと素盞嗚尊(スサノオ)で、大国主の父祖であり、出雲開祖の神である。

次回は、 熊野大神開祖の宮・・?「阿須賀神社」  part7へ

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