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【紀伊山地の霊場と参詣道】1
南紀霊場:part1(世界遺産、南紀白浜)   Part2(南紀白浜、串本)
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世界遺産(1) 「熊野地方」


熊野地方の「世界遺産]について・・、

紀伊山地の霊場と参詣道】として、2004年(平成16年)7月、ユネスコの「世界文化遺産」に登録された。 

因みに、ユネスコについては次のように記されている。
「ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという。
頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している・・。


長い歴史を誇る社寺や自然が織りなす文化的景観が文化遺産として登録され、その内容名称は「紀伊山地の三つの霊場(熊野三山、吉野・大峯、高野山)とそれらを結ぶ参詣道」として推薦、指定された。そしてそれらの地域は奈良県、和歌山県、三重県にまたがる29市町村と合わせて日本最大の文化遺産である。
参詣道として「」が世界遺産として登録されたのはスペイン、フランスにまたがる巡礼道「サンディアゴ・デ・コンポステラへの道」についで二件目であるという。


【紀伊山地の霊場と参詣道】に該当する登録基準、その要旨については・・、

★ ある期間を通じて又は、ある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。(文化遺産登録基準2)
★ 紀伊山地の神社と寺院は、それらに関連する宗教儀礼とともに1000年以上にわたる日本の宗教文化の発展を示すたぐいまれな証拠である。(文化遺産登録基準3)
★ 人類の歴史上重要な時代を例証する或る形式の建造物、建築物群、技術の集積または景観の顕著な事例であること。(文化遺産登録基準4)
★ 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または芸術的、文学的作品と直接に又は明白に関連するものとしている。(文化遺産登録基準6)

世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」の範囲は・・、(文化庁提供)
先ず、修験道の拠点である「吉野・大峯」,熊野信仰の中心地である「熊野三山」,真言密教の根本道場である「高野山」の三霊場及びそれらを結ぶ「参詣道」から構成される。

(1)霊場:「吉野・大峯」
紀伊山地の最北部にあり,三霊場の中で最も北に位置する。農耕に不可欠の水を支配する山あるいは金などの鉱物資源を産出する山として崇められた「金峯山」を中心とする「吉野」の地域と,その南に連続する山岳修行の場である「大峯」の地域からなる。
修験道の中心的聖地として発展し,10世紀の中頃には日本第一の霊山として中国にもその名が伝わるほどの崇敬を集めるようになった。日本中から多くの修験者が訪れ,「吉野・大峯」を規範として,全国各地に山岳霊場が形成されていった。
「構成資産」
吉野山,吉野水分神社,金峯神社,金峯山寺,吉水神社,大峰山寺

(2)霊場:「熊野三山」
紀伊山地の南東部にあり,相互に20〜40kmの距離を隔てて位置する「熊野本宮大社」,「熊野速玉大社」,「熊野那智大社」の三つの神社と「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」の二つの寺院からなる。
三つの神社はもともと個別に自然崇拝の起源を持っていたと考えられるが,10世紀後半は他の二社の主祭神を相互に合祀するようになり,以来「熊野三山」あるいは「熊野三所権現」と呼ばれ,多くの皇族・貴族の崇敬を集めるようになった。
「青岸渡寺」及び「補陀洛山寺」は,「熊野那智大社」と一体となって発展してきた寺院で,神仏習合の形態をよく保っているものである。
「構成資産」
熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社,青岸渡寺,那智大滝,
那智原始林,補陀洛山寺

(3)霊場:「高野山」
「吉野・大峯」の西南西約30kmに位置し,空海が唐からもたらした真言密教の山岳修行道場として816年に創建した「金剛峯寺」を中心とする霊場である。
「金剛峯寺」の伽藍は,真言密教の教義に基づき本堂と多宝塔を組み合わせた独特のもので,全国の真言宗寺院における伽藍の規範となっている。
また,「丹生都比売神社」の祭神は,高野山一体の地主神で,空海にこの地を譲った神と伝えられ,「金剛峯寺」の鎮守として祀られたものである。
「構成資産」
丹生都比売神社,金剛峯寺,慈尊院,丹生官省符神社

(4)参詣道
三霊場に対する信仰が盛んになるにつれて形成され,整備された「大峯奥駈道」,「熊野参詣道」,「高野山町石道」と呼ばれる三つの道である。
これらの道は,人々が下界から神仏の宿る浄域に近づくための修行の場であり,険しく清浄な自然環境のなかに今日まで良好な状態で遺り,沿道の山岳・森林と一体となった文化的景観を形成している。
「大峯奥駈道」は,「吉野・大峯」と「熊野三山」の二大霊場を結ぶ山岳道で,修験道の最も重要な修行の場である。
「熊野参詣道」は,「熊野三山」に参詣する道で,京都方面からの参詣のために最も頻繁に使われた「中辺路」,「高野山」との間を結ぶ「小辺路」,紀伊半島の南部の海沿いを行く「大辺路」,伊勢神宮との間を結ぶ「伊勢路」からなる。「高野山町石道」は,一町ごとに町石と呼ばれる石製道標が立つ道で,高野山下の慈尊院から高野山奥院にかけて空海が開設した参詣道である。

「構成資産」
大峯奥駈道(玉置神社を含む),熊野参詣道「中辺路(熊野川を含む)・小辺路・大辺路・伊勢路(七里御浜,花の窟を含む)」,高野山町石道


過去に、熊野神域が危機に瀕したことがあった・・!、
明治39年(1905年)に施行された「神社合祀令」(不分明な神社を整理・合併し、合祀するもの、 明治政府・政令による)によって全国で五万もの神社が潰され、熊野でも神社や森が潰されるという危機に瀕した。
この危機に対し、和歌山県出身の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、『神社をつぶすということは自然と人間社会を破壊するもの』として、日本で初めてエコロジー(生物と生物の関係、生物とそれを取り巻く無機的環境との関係を研究する科学)の考えを提唱し、「神社合祀令」に反対して、「熊野の森を守れ・・!!」と、立ち上がり、那智の滝の原生林や樹齢500年をこえる熊野古道の杉木立を守ったという。
南方 熊楠(みなかた くまぐす:和歌山県和歌山市城下出身、)明治・大正期の博物学者、民俗学者。 動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ「粘菌」(下等菌類の一群で、植物分類上の一門)の研究で良く知られている。
熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんで命名したという。(詳細後述)

 

過ぐる2002年9月、我等夫婦は「南紀地方」を3泊4日の日程で旅行した。 

勿論、南紀・熊野地方には由緒ある地域が多数在って、これらを参詣、見学、観光するのが目的であった。その直後に、これらの主要地域が「世界遺産」に指定される事など露知らず。 
そして、本年(2005年)偶々(たまたま)「日本外周一周」の旅に出て、この地方を再確認する機会に恵まれた。これらと合わせて、当時の「旅の様子」を記したい。

巡った主な地域、名称は次の通り・・、
★ 南紀白浜(円月島 、千畳敷、 三段壁)、串本海中公園、潮岬(灯台)、大島 、橋杭岩 那智勝浦温泉、ホテル浦島
★ 熊野古道・「大門坂」、青岸渡寺、 那智大社、 那智の滝、補陀洛山寺、熊野速玉大社、紀の松島(観光船)、太地、ホテル浦島  
★ 瀞峡めぐり(瀞峡和船)、本宮大社、熊野古道・「中辺路」、湯峰温泉(旅館 よしのや)
★ 滝尻王子(古道舘)、清姫塚、御坊道成寺、紀三井寺、和歌山城、関西空港

尚、「日本周遊紀行」の西日本編にも記載してますので御覧戴きたい。

  
西日本写真集   part2へ

次回、南紀白浜

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熊野紀行(2)南紀白浜 「白浜温泉」

むれの湯


崎の湯
写真:白浜共同湯、牟婁(むろう)の湯と露天風呂・「崎の湯」


白浜温泉の命名は白良浜から・・?、

南紀、熊野方面は以前より是非行ってみたい希望の地であり、この度やっとその目的が達せられた。
南紀白浜空港は、和歌山県南部の海岸に面した高台にある。 
和歌山県の空の玄関口として昭和43年に開港したというが、瀟洒な田舎の空港って感じである。 田舎の空港といっても南紀地方の玄関口でもあり観光・リゾート資源の宝庫である。 
一大観光地である白浜町の中心部に位置していることから、利用者に占める観光客の割合が高い空港であろう。
空港ロビーでレンタカーの受付を終える。 

この辺り、すでに白浜の南の入り江に面しているところであり、長閑な風景が眼前に広がる、左手にかの古賀の井ホテルの勇姿・・?が見えている。  
霊泉橋という洒落た名前の橋を渡りながら、いよいよ南紀観光へ出発である。

暫く海岸を走り、南方熊楠記念館や京大白浜水族館のある小さな半島を横断すると、西側の外海海岸にでる。 正面に白浜第1番目のスポット「円月島」が飛び込んできた。
南北130m、東西35m、高さ25mの小島で、島の中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いていることから「円月島」と呼ばれている。 ほぼ左右対称形で上部に緑の林がコンモリとしている、まるで、眼鏡をかけた睫毛のようで、俗名、めがね島とも言うらしい。
日の沈む夕景の美しさは格別で、夏は6時30分頃、冬は4時30分頃、島の中央穴の付近に太陽が挿しかかるという。


すぐ近くに「白良浜」の弓なりの美景な浜が広がる。 

南紀白浜町とはこの浜の様子から命名したのであろう、名前が示すとおりの真っ白な砂浜と青く澄んだ海、その美しさと華やかさは思わず沖縄かハワイの南国リゾート地にいるかのような感覚、錯覚させられる。 
実際に、ハワイ州ホノルル市のワイキキビーチとは友好姉妹浜『Goodwill Beach City Relationship』提携を結んでいるという。周辺は「湯崎」といって白浜温泉の中心街として、温泉街、旅館・ホテル、温泉場、露天風呂などが犇めき合っている。
古来、白浜は日本三古泉は白浜・有馬・道後といわれるが、よく間違える日本三名泉は有馬・草津・下呂、これに別府・熱海が混じっていることもよくあるが、まあ我々にすればドチラデモよろしいことで、名湯、古泉に変わりはない。

今から1400年前からここに温泉が湧き、歴史の重大事件にもなった場所であり、白浜・湯の崎は日本書紀や万葉集等、古書の文献にも「牟婁(むろう)の湯」、「武漏の湯」と呼ばれ登場している。


白浜温泉と都人と牟婁の湯・・、

奈良期、有間皇子(父・孝徳天皇、有間という名は有馬温湯で療養していた時に生まれたからといわれる:中大兄皇子とは従兄弟の関係)は心の病を装って「牟婁の湯」に療養に行き、再び飛鳥に帰った後、斉明天皇(中大兄皇子の母:有間皇子の叔母)に自分の病気が完治した事、そして、その土地の素晴らしさを話して聞かせたという。
今度は斉明天皇自身が中大兄皇子(後の天智天皇:斉明天皇の子:有間皇子の従兄弟)と共に療養のための「紀の湯」に行幸したとのこと。

この時期、有間皇子は中大兄皇子と従兄弟の関係にあるため、どちらも皇位継承権があり、そのため継承権を巡って争っていたとも云われる。
その時、有間皇子は中大兄皇子の重心で留守官であった蘇我赤兄(そがのあかえ:蘇我馬子の孫)から、「謀反を企る為、天皇と皇子を白浜へ追いやったのだろう・・」と冤罪をかけられ、囚われの身となり後に再び紀伊国白浜の牟婁の湯へ護送される途中、中大兄皇子からも詰問を受けて19歳の若さで処刑(658年)されたといわれている。
その発端となったのがこの白浜・湯の崎温泉への行幸であった。


現在も道ばたの海岸に湯が湧いている「崎の湯」(日本最古の露天風呂)や、そのすぐ近くにその名も「牟婁の湯」がある。
泉質は、食塩泉・重曹泉など41〜83℃位で、無色・透明。効能は、一般的適応症のほかに、美肌・神経症・不眠症などに良いとされる。 「湯崎」の辺りは、硫黄のような臭いがして、いかにも温泉場らしく独特の風情があって良い。

因みに、千葉県の房総最南端の白浜は、この地南紀白浜の人々が遠洋漁業などで住み着き、望郷の地として命名したという。

次回は、 白浜・「千畳敷、三段壁」   part2へ

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