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「広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」 (詩の神・オーディン) 主題はブログにリンクします 世界遺産・平泉(3) 「藤原三代」 , 藤原三代の肖像画(wiki 毛越寺所蔵) 平安末期、東北地方・陸奥の国において大騒乱が発生し、陸奥の国の旧態勢力から都の新勢力によって取って交わされる。 この騒乱を中央勢力の源氏(源頼義)が、奥六郡(陸奥の国)を支配していた安倍氏(安倍貞任)を征伐する「前九年の役」、さらに、その後奥六郡を統治していた清原氏の内紛で 源義家(源頼義の子)が介入し、結局、清原清衡が勝利し陸奥の領地を治めることになる。これを「後三年の役」と称した。 その後清衡は平泉を中心に奥州藤原氏を繁栄させていくことになる。 因みに、清衡がなぜ藤原を名乗ったかと言うと、清衡の母親の旧姓が藤原だったので、都の中枢にある摂関家(平安期に藤原一族が、代々摂政や関白となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた)である藤原氏に因んで改名したとされる。 その後、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡、そして藤原泰衡らによって、藤原一族による凡そ100m年間わたって奥州支配が続くことになる。 ただ、四代目の泰衡は、華やかな藤原文化としての実績は余り残していないようで、逆に、藤原家に命乞いをしてきた義経を、奇襲にて殺してしまうなど、歴史的にも印象の悪い行為を残している。 従って、奥州における隆盛を誇った藤原時代は、実績的には清衡、基衡、秀衡の三代というのが一般的らしい。 話はチョット遡るが・・、 後三年の役は、都の源氏が奥州の清衡(清原氏)を援助して決着した戦乱であった。 従って、この戦については朝廷は清原氏の内部抗争であり、所謂、私戦と見なして源義家に対しての恩賞はなかったという。 仕方なしに義家は自分の身銭を切って家来に恩賞を与え、家来からの信頼を集めた。 このことが源氏隆盛のきっかけとなり、天下を取る下準備となるのである。 後に、源氏からは義家から数えて曾孫に当たる義朝を生み、更に、頼朝、義経を生んで天下国家に号令するまでになる。 栄華を誇った藤原氏は、鎌倉で天下を掌握した源頼朝によって滅ぼされる。 振り返れば、凡そ100年前に起こった奥州争乱(前九年、後三年の戦)は源氏によって鎮圧され、元より源氏の領域であったのだ。 しかし、何時しか藤原氏によって支配されるようになったのである。 それが再び頼朝によって奪還されたという、所謂、歴史の皮肉な因果が時代を駆け巡るのである。 次回、「藤原清衡」
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