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古都鎌倉 (7)
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古都鎌倉(7) 「大江・毛利・島津の墓」




広元の墓
季光

上より大江広元、毛利季光、島津忠久の墓



当墓地においても「薩長同盟」がなされているのが面白い・・、

こちらへ行くには、源頼朝の墓の右手奥にある石段を登って山の小道を歩いていくか、一旦頼朝の墓を降りて右側に歩いていった先の左手階段を上っていくようになる。
どちらも山裾の薄暗く湿った林の中で、かなり心細いルートである。

山腹に玉垣に囲まれて三ヶ所の墓があり、よく見るといずれも「やぐら風」(矢倉・窟、岩山に穴を掘って物を貯蔵しておく倉、また、墓所、鎌倉付近に多い)横穴古墳のようなものを改装したもので、江戸近世以降のものと見られる五輪塔が入っている。


真ん中に鎌倉幕府の要職を務めた「大江広元」の墓があり、左側には大江広元の第四子で後の中国地方の大名の毛利氏の祖といわれる「毛利季光」の墓がある。
そして右側に頼朝の子で、後の南九州地方の大名・島津氏の祖といわれる「島津忠久」の墓がある。

何れも、19世紀に入って、日本の大革命を成し遂げた累代の祖先たちである。



これら三者の先ず「大江広元」について・・、


わが町、神奈川県・厚木市に南毛利、毛利台といった地名が今も在る。
中世の頃までは、相模の国(神奈川県)のこれらの地域である愛甲地区を、「毛利の荘」と称していた。

頼朝の側近で、幕府の公文所や政所の別当(長官、大臣)として幕府の政治を進めた、いわば総務長官であった。 
頼朝は、彼に相模の国・毛利の荘を与え、その子四男の季光に「毛利季光」と名乗らした。 

後に季光は中国地方の安芸の国を与えられ、「三本の矢」で有名な長州藩の宗領「毛利元就」を生むのである。


鎌倉で幕府の統領になった頼朝は、都の学問や法律を学び、様式や文化を取り入れるべく都(京都)から大江広元を鎌倉に招いた。 
広元は、政所の長官として腕をふるい、頼朝が全国に「守護・地頭」を設置したのも全ては広元の献策によるものであると言われている。

頼朝の死後も北条執権の下で幕府に参与している。




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その四男・毛利季光について・・、


建仁2年(1202)大江広元の四男として生まれたのが季光である。

季光が名乗った「毛利」は、現在の厚木市域から津久井方面にかけてひらかれた庄園名であり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて森冠者(陸奥六郎義隆)や毛利太郎景行などの武将名が資料に登場している。 
季光は、和田義盛の乱で亡んだ毛利氏や愛甲氏にかわって毛利庄の領有権を得たことによって、自らの姓を「毛利」と改めたといわれる。


毛利庄と鎌倉とのつながりは深い・・、


宝治合戦(ほうじがっせん:鎌倉時代の1247年に執権北条氏が御家人三浦氏の一族を滅ぼした事件である。
三浦氏の乱とも呼ばれる)において三浦方についた季光は、この日、一族と共に死の時を迎えることになる。
鎌倉の有力御家人・三浦氏との姻戚関係をもったことが、逆に季光の運命を追いつめる結果となってしまったのである。 

季光を含めた三浦一族が敗戦の結果、自殺、討死を余儀なくされるが、この時、一人四男の経光だけは越後国にあって、この難をのがれている。


この季光の子「経光」によって毛利の姓はかろうじて保たれた。
経光は、越後国・佐橋庄(新潟県)と安芸国・吉田庄(広島県)の地頭職が安堵され、この毛利氏が後の吉田庄で戦国大名として名を馳せることになる。

そして「毛利元就」を生むことになるのである。



次に島津忠久のこと・・、


頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であった。
その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが忠久だといわれる、御落胤である。

大阪の住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。

一時、畠山重忠に預けられ、成人して幕府御家人となり、源頼朝から日向国・島津庄(宮崎県都城市)の地頭に任じられ、「島津」姓を名乗った。 
島津家に伝わる史料でも、忠久は母親が源頼朝の側室で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたと記されている。


その後、薩摩国・大隅国・日向国の3ヶ国の守護職に任じらている。 

しかし、建仁2年(1203年)の「比企能員の変」に連座したとして、三州守護職を地頭職を剥奪される。
その後、北条氏との関係を修復し、薩摩国においては建保元年(1213年)守護職に復職している。

州の覇者・「島津氏」の開祖である。


頼朝が築いた武家政治(幕府)は、永きにわたって江戸期まで続くことになる。

この制度を打ち破ったのが、くしくも長州・毛利氏と薩摩・島津氏の両藩で、明治維新に繋がるのである。

両氏は、武家政治の始まりと終わりに煌く出現している。

現在、当墓地においても「薩長同盟」がなされているのが面白い。


次回は、三浦一族    古都鎌倉(8) 「三浦一族の墓」へ



        

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